性格の半分は遺伝的要因で決定されているとか、頭のよさや運動神経は母親から受ける影響が大きいとか、そういった遺伝的もしくは幼少期の環境の影響力の大きさはよく聞く。
また、最近の本を見ていると、脳科学や精神科学をもとに人間の心や思考にアプローチし、「心があると脳が錯覚させている」「心は存在しない」といった人間の一貫性を否定する考えが主流になっていると感じる。つまり、人間には体は確かに存在しているが、神経系の反応の連続に生合成を与えているにすぎず、心や私というのはないんだという話だ。
こういった話はとても興味深いが、捉え方を一つ間違えると、運命の力があまりに強大で、自分が変えられる事はほとんどないのだと言われているような気になってしまう。それはあまりにもやる気を削ぐ考えだし、生きづらい。
運命論を強めるような科学的論拠が広がる一方で、最近の啓発本やビジネス書では、他責思考の否定や原因自分論が主流であると感じる。
もちろん、他人を責めることで自分が成長する事はないし、自己啓発本ならそれを推奨することはないだろう。何か不測の事態に陥って自分以外を責めたくなった時にも、可能な限り自分で変えられることに集中し対応策を考えることは重要だと思う。
しかしこれも行き過ぎると、何もかも結果に結び付かなかったことを自分の努力不足のせいにしなくてはならず、とても苦しいことになる。自己成長を語る上で言及する必要があるかは別として、環境やその他の原因がないはずがないのだ。
この両極端ともいえるの考え方と、私はたちはうまく付き合っていく必要があると思う。
心と体は分けられないし、体は持って生まれた要素が大きい
上述の通り、最近は「人はなんだってできる」とか「心と体は別のもの」といった考え方は下火だと言える。
持って生まれた運命的な要素として、環境もあるが、一番身近で長い付き合いを強いられるのが肉体だろう。
そして、肉体と心が思っている以上に連動していることは近年はっきりしてきている。
例えば、「考える腸」といった、脳以外の神経系が発達した臓器が思考に関与しているという考えは、以前から存在していたが、それを最近の科学は裏打ちし始めている。人の性格やメンタルの状態が、腸内環境に起因することを示す研究もある。
話は少し逸れるが、心と似た扱いを受けてきた「魂」などは、時代や国により存在するとされる数も場所も異なってきた。
数ではプラトンの魂の三分説、中国の三魂七魄と言った考え方。場所については、魂の座を松果体といったデカルトや、ハプスブルク家の心臓埋葬、日本の侍は腹切りなどが例として挙げられる。
私たちは本来は実態のありもしないもの、もしくは身体のあちらこちらに散らばって存在したり、瞬間瞬間に主体が移動するものを切り取って、心や魂などと呼び論じてきたのかもしれない。
体のいろいろな場所の影響を受けて心が動き、思考していることを文化や時代に関わらず理解してい多可能性はある。
変えられない要素を理解し、ひらき直る
病気をしたことがある人なら誰でもわかることだが、体が弱れば心も引きずられるし、病は気からなどというように逆も然りである。
個人的な体験としては、胃腸の強さはかなり思考に影響すると思う。
私の周りにいるストレスを感じづらい人たちは、ほとんど悩まないし細かいことを気にしない性格なのだが、総じて胃腸が強く、食べても太りにくい人が多い。
そして無意識に生活の中にプロバイオティクスを取り入れている人も多い気がしている。これはあくまで一個人の感覚的な話だ。
三島由紀夫は「太宰治というひとは、毎朝いつもより30分だけ早起きして、ランニングか器械体操をすれば、じぶんの思想を変えることができただろう」と言ったらしいが、肉体的な強弱が思想に影響するとは分かっていても、私個人としては変えられない部分もあったのではないかと思ってしまう。
持って生まれた臓器の強さや体力は、なかなか底上げできないものだが、これは本当に強く生まれた人にはなかなか伝わりにくい。
勉強が苦なくできた生徒は「勉強をすれば誰でも東大に入れる。入れないのは努力不足」と簡単にいってしまうようなものだ。
体力をつける体力がなかったり、体力をつけようと頑張れば体を壊したりする人間もいる。そんなふうに成功体験を積めずにいると、ちょっと不貞腐れた人間にもなったりする。私のように。
私が筋トレを趣味にしていると言うと、多くの人は私という人間のことを「体力がありアグレッシブで運動神経がいい」と勘違いする。これらは全て私の持ち合わせていない要素であるというのに。
体育で3以上の成績をとったことがないし、ヘルプで呼ばれたバレーボールの試合では「こんなに動けない人間を初めてみた」と哀れみの目を向けられた。
そして、私の口癖は「体力が欲しい」だ。
筋トレは私の筋肉を増やし体幹は強くしたが、基礎体力を増やすことも根本的に丈夫な体にすることもなかった。ただマッチョな病弱が爆誕しただけだった。悲しい……。
胃腸の強さ、ひいては体の頑健さについては、思考や性格と絶対に密接な関係があると私は思う。
胃腸が弱くすぐに体調を崩す自分にとって、よく言えば真面目、悪く言えば心配性で慎重すぎる性格や、内省的かつ内向的な考え方が身体的な特徴と無関係とは思えない。
幼少期から、思い当たる節がありすぎるのだ。
こういったことまで原因自分論で戦うと、本当に疲れる。
なので、努力で伸びるところだけに注目し楽しみながら、伸びが悪かったり限界を感じるものには「持って生まれたものだし」と割り切ることも重要だと思う。
変えられないものに拘泥せず、できることをする。
古代のストア派哲学の最重要原則に「変えられるものとそうでないものを区別すること」がある。
また、現代には次のような祈りの言葉もある。
「神よ、変えられることのできないんものについては、穏やかに受け入れられますように。帰ることのできるものについては、変える勇気をもてますように。そしてどうか、その二つを見分ける知恵をお与えください」
これはニーバーの祈りといい、依存症の克服を目指す人々が捧げるものだが、私たちにもとても役に立つ祈りだ。
余談
余談だが、腸内細菌の種類や多様性によって免疫や精神疾患のリスクが変わるなんて言われてしまうと、細菌というのは自分とは別の生物なので、やはり共生よりは寄生というか、何か別の生命体にジャックされている気にならないだろうか? これはSFの読みすぎか。
少なくとも私たちは、こうだと信じてきたものを科学や哲学といった様々なものに日々壊されている。
心や自我が否定された先で、私たちは何を否定されるのだろうか。
なんとなく、どんな驚くべき事実も、人は受け入れそうな気がする。原始にミトコンドリアと共生し、その後腸内細菌を受け入れた時のように、総体として個は膨らみ続けるのだろう。
ずっと別の「自分」になってきたように、変化こそが「私」の本質なのかもしれない。
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