レビュー【映画大好きポンポさん】人生を90分の映画に

映画レビュー

Amazon prime videoに追加されていたアニメ映画『映画大好きポンポさん』のレビューをしたい。

舞台はハリウッドならぬニャリウッド。映画を制作する監督たちの話だ。

評価が高かったのでとりあえず見てみたが、気軽に見られてスカッとした気持ちになれる作品でありながら、含蓄ある言葉の散りばめられた良い映画だった。

気持ちが晴れてぐっすり眠れる。平日の夜を彩るのにふさわし良作品だ。見てよかった。

全体の雰囲気や構成、痛快でありながら考えさせられる作風が、どことなく私の好きなアニメである『GREAT PRETENDER』に通ずるものがあるように思う。

絵も綺麗で演出も音楽も凝っていて、90分間+エンドロールの丸ごと飽きずに楽しめる。

軽いのに軽すぎない。そんな作品自体が、この映画のキャラクターであるポンポさんの映画作りの信念にも通じているように感じる。

面白い映画を撮れるのに、好んでB級映画ばかり作っているポンポさんは、笑ってこう言う。

「泣かせ映画で感動させるより、おバカ映画で感動させる方が格好いいでしょ?」

私はコミカルなこの映画で間違いなく何度も感動した。名台詞や好きなシーンが盛りだくさんだったので、ぜひ紹介していきたい。

「名作ってやつの匂いを嗅ぎにきただけよ」

映画の長さについて、この作品ではまるで、自分や他人の人生を見つめるに耐える長さだとでもいうように語られる。

    とあるシーンで、ジーンがニューシネマパラダイスを見るというと、ポンポさんは言う——「あー、私それ嫌い」

    ジーン「え、名作ですよ?」

    ポンポさん「いや内容はいいけどアレ、なっがいもん」

    ジーン「長い映画はダメですか」

    ポンポさん「ダメ!全部やだ」

    そう言って過去の回想をするポンポさん。

    幼少期、有名映画監督である祖父のペーターゼンと映画を見た時間のことだ。

    ポンポさん「辛いぜぇ? 子供が黙って2時間、3時間、座ってるのは。途中で席立ったら全部見ろって怒られるしさぁ……最後に感想言わされるし。だから90分以下のわかりやすーい作品は、砂漠のオアシスって感じだったわ」

    これをポンポさんは、長い映画を嫌いな理由の“1つ”だと言う。そしてもう1つは、2時間以上の集中を観客に求めるのは、現代の娯楽として優しくないから。

    ポンポさん「製作者はしっかり取捨選択して、できる限り簡潔に伝えたいメッセージを表現すべきよ。ブヨブヨした脂肪だらけの映画は美しくないでしょ」

    彼女の作品作りの信念として確かにあるのは、誰もが惹きつけられるエンターテイメント性なのだろう。削ぎ落とされた、ある種のアフォリズムを映画に求めるような姿勢がある。

    ポンポさんは、飽きずに見られる短くて面白い映画の中でしか生きられない人だった。

    けれども長編名作を完全に否定しているわけではない。

    この会話の後、ポンポさんはニューシネマパラダイスを見ているジーンのもとに少しだけ立ち寄る。

    どうせなら最初から通して全部見たらいいのにと思うのが、映画好きの心情だろうが、ポンポさんは否定する。

    「いらん。全部見る気はない。名作ってやつの匂いを嗅ぎにきただけよ」

    短い映画を信念としながら、ポンポさんは長い映画を好む映画好きのジーンを否定しない。

    ジーンの見る世界を、彼の目を信用していて、彼の言う「名作」のエッセンスをできるなら彼を通して共有したいと思っている。

    ポンポさんに監督に選ばれたジーンは、彼女の中にある景色を最高の形で映画にし、見せられる存在として選ばれた。

    創作論、そして作品を通しての2人のコミュニケーションがここから始まっている。

    「目に光がなかったからよ!」

    作品の序盤。ジーンはポンポさんに訊ねる。

    他にたくさんの逸材がいる中で、なぜ自分がアシスタントに選ばれたのか、と。

    するとポンポさんは、当然とばかりに答える。

    「目に光がなかったからよ!」

    ここからはポンポさんの怒涛の創作論だ。

    声に出したいセリフが続く。

    「満たされた人間っていうのは、モノの考えが浅くなる。幸福は想像の敵。彼らにクリエイターとしての資格なし」

    「ジーン君は、社会に居場所のない、追い詰められた目をしているの」

    「現実から逃げた人間は心の中に自分だけの世界を創る。社会と切り離された精神世界の広さ・深さこそがクリエイターとしての潜在能力の大きさなの」

    こう語るポンポさんもまた、居場所のない幼少期を過ごし、短い映画の世界に閉じこもったはずだ。

    唯一の居場所であった映画監督である祖父との時間も、長い映画は苦痛で、短くわかりやすい映画だけが救いだった。

    ちなみにこのジーの目についての描写は、ある人物が言う中盤の台詞と対になっている。

    ジーンと同じハイスクールに通っていた現銀行員のアランだ。

    彼と再会した時に、ジーンはこう言われる。

    アラン「あの時言った言葉を、訂正するよ。お前はずっと前だけ見てたんだな。今のお前の目は輝いてるよ」

    前半の台詞は、アランがハイスクール時代にジーンに言った、「下ばっか見てないで、前も見ろよ。じゃなきゃ、大事なもの落としちまうぞ」を訂正する言葉。

    アランは、周囲に居場所がないからジーンが下を向いていたわけではなく、周りが見えないほど手元の映画の世界に夢中だったことを知る人物だ。 

    ポンポさんの言う「目に光がなかった頃のジーン」が、監督として目を輝かせてやりたいことをしているジーンを作っている——とも捉えられるし、違う人物から見た別の解釈とも捉えられると思う。

    ジーンの目はずっと同じもの、映画というものを見続けている。それ以外は目に入らないくらい、それ以外は輝いて見えないくらいに映画のことだけを考えて生きている。それはずっと変わらないのに、他の人から見る彼の瞳は、光がないとも、輝いても見える。

    ポンポさんもアランも、瞳に対する正反対の描写をしながら、どちらも誉めているのがとても面白い。

    解釈も、そして表現も人によって違う。これも歴としたクリエイティブだ。

    「映画を生かすも殺すも編集次第」

    映画と共に、この作品のテーマになっているのは「編集」だと思う。

    映画と共に、編集もまた人生にかけられていると感じる。

    ジーン初監督作品のクランプアップの後、ポンポさんは「映画を生かすも殺すも編集次第」と語る。

    実際、映画の撮影よりもジーンは編集作業で最も苦難を強いられる。

    編集作業で行き詰まるジーンは、どれも大切な気がして削れないことを、ポンポさんの祖父であるニャカデミー賞監督ペーターゼンに相談する。

    趣味で古いフィルムをスプライサーで継ぎ接ぎして「あったかもしれないもしも」の物語を手仕事で生み出しながら、彼は訥々と語る。

    映画は誰のためにあると思うか、と。

    ペーターゼン「君は映画の中に自分を見つけたんじゃないかね?物語を通して、共感や夢、憧れ、現実を見た。——さぁて、ジーン君。君の映画の中に君はいるかね」

    編集を含む映画作りにおいて、それを見つけなさい、と彼は伝える。

    ペーターゼン「さて君は誰に、どんな感情を映画を通して伝えたいかね?」

    それに対し、ジーンは考え抜いた末に答えを出す。

    ジーン「生きることは選択の連続だ。一つを選択すれば、それ以外は切らなくちゃいけない。だから——会話を、切れ。友情を、切れ。家族を、切れ。生活を、切れ。」

    ジーン「ただ一つ、残ったものを手放さないために。諦めないために。切れ!」

    そういいながら編集し、足りないシーンの追加撮影も決心する。

    全ての編集を終えた自身の作品に対して、正解なんて誰にもわからないとジーンはいう。

    これは、あまりにも人生だ。

    手放せない何かのために、孤独と引き換えに手に入れたい何かのために、自分の人生を紡ぐために、正解とは言えなくても、数々の選択を通して一つの答えを提示しなくてはならない。

    後から振り返って、ある種の編集を加えることで、「あの時の最低な出来事にも意味があったんだな」とか「自分の人生はこのためにあったのかもな」とか、再解釈に至ることもある。

    遅くても、いくつになっても、足りなければ取りに行かなければならないのだ。諦めきれない何かをのために。

    ともすれば人生も、編集次第でどうにでもなる側面もあるのかもしれない。

    人生を歩む途中で追加撮影が必要だと気づき、間に合えばそれがいい。しかし間に合わなくても、人生が終わった後に思い出したい90分を何にするかを、私たちは選択の連続だった過去の中からもう一度選ぶこともできるだろう。

    さらに言えばペーターゼンのように、上映の終わった古いフィルムでも、繋ぎ合わせてあったかもしれない可能性に思いを馳せることだむてできる。これも、今あるものでどうにかする編集作業だ。

    同じ人生を、駄作にするのも名作にするのも、90分の映画にするときにどこを切り取るかが全て。

    そんな可能性に溢れる考え方も、あっていいのではないか。

    「一番気に入ってるのは、上映時間が90分ってところですね」

    苦労して編集を終えたジーンは、映画をはじめて見せたポンポさんにこう言われる。

    「君の映画、大好きだぞ」

    これは映画を通して自分の人生を写したジーンの人生を肯定する言葉だ。それはつまり、ポンポさんが、ジーンの答えを見て、自分の人生を重ねられたということ。90分間、集中して、感情移入できたということ。

    最後に初監督作品で見事、ニャカデミー賞監督賞を取ったジーンは、司会の女性に聞かれる。本作の一番気に入っているところはどこか、と。

    ジーンは少し悩んでから、冗談のように笑って答える。

    「一番気に入ってるのは、上映時間が90分ってところですね」

    これが誰に向けた誰のための映画なのかを物語ったラストシーン。

    ちなみにこのシーンまでの本作の長さも90分になっている。極めて粋である。

    ちなみに本作の中盤、ポンポさんと組んでB級映画をとる先輩監督から、ジーンは初監督に際して助言を受けていた。

    「世間ウケを狙ったら、八方美人のボヤけた映画になっちゃうでしょ。それよりも誰か1人。その映画を一番見てもらいたい誰かのために作ればいいんだ。そうしたらフォーカスが絞られて、作品の輪郭がぐっと立つ」

    その時、ジーンの視線には、監督の後ろにいるポンポさんの横顔にフォーカスが当たっていた。

    この昨日は紛れもなく、ポンポさんに向けて作られた作品だ。そして、どの映画館にもいたとジーンが語る、エンドロール前に席を立って劇場を去る少女のための映画だ。

    ポンポさんを含む少女たちを救いたいという、ジーンのための映画だ。

    エンドロールが終わってもまだ立てないくらい、自分の人生と重ねて、キャラクターに自分を見て、感情移入をしてひたすらに没頭できる90分。

    それはもう、自分のもう一つの人生が90分に集約されたようなものではないか。

    まとまらない、まとめ

    本作ではどのキャラクターも、「自分のために」誰かの力になりたいと願って行動している。

    映画監督も俳優も撮影スタッフも銀行員も、皆がクリエイティブに生きようとしているのが見ていて気持ちが良い。

    全て有機的に繋がり丸くおさまるが痛快なのは、これが現実ではそうそうない虚構だと理解しているからだ。

    この作品の全てのシーンは意味をもって回収される。無駄がなく、全て意味があるように「編集」されている。脂肪は削ぎ落とされている。それが作品のテーマでもあるからだ。

    この作品ではそれが良い点だが、無駄が輝くことももちろんあるだろう。

    名作であっても、長い映画は好きじゃないとポンポさんは言う。

    私は別に、本作で語られる映画をすべて人生と重ねたいわけじゃない。

    例えば、長い人生ばかりが良いものじゃないとか、冗長で退屈な生き方が脂肪だらけで美しくないと解釈したいとは思わない。

    國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』で読んだが、人間の感覚器が捉えられる時間の最小単位は、18分の1秒だと言われている。人間という動物でいる限り、その人生は18分の1秒のつながりでしか見ることはできない。

    映画のフィルムが一コマ一コマ続いているように、私たちの人生の映画は、18分の1秒のコマのつながりらしい。

    これよりも細かい時間を経験している動物もいれば、もっとコマの少ない世界に生きる動物もいるだろう。

    これは私たち人間の限界の話。環世界の話だ。ダニと人間の見る世界や生きる時間がまるで違うという話。そして退屈するまでの時間も、感覚も違うと言う話。ダニは獲物が近くを通らなくても、その時が来るまで何日だってじっとしてられる。

    人間の中でも、ひとりひとりが経験する時間の感覚が大きく違っている。それは主に、共感や興味によって。

    映画好きの見る3時間越えの映画は、特に長くは感じず苦なく過ぎるだろう。映画そのものが、その人にとって飽くなき探究が掻き立てられる異世界だからだ。

    ほとんどの人は映画自体ではなく、それを通して誰かの環世界に浸れることで、現実から離れ非日常に退屈せずにすむ。

    私たちの人生を映画として捉えるとするなら、見る人の視点によって全く異なるもので、なんなら自分でさえ感想や解釈が異なることがある。

    私たちは、自分の人生をどこでどう解釈し、観客に何を見せるのか。そして自分の人生の何に共感して欲しいかを、あらゆる創作を通し、場面場面で選ぶことができる。

    映画を見ていて、そんなふうに思った。

    学問や知識や文明であれば広く、多くの人に伝えたいと思うだろう。

    そして、私が私個人の人生をただ語るなら、大切にしていた信念や限られたテーマを、限られた人の共感を誘うために、コミュニケーションの手段として伝えたいと思う。

    それは言葉だったり、文字だったり、絵画だったり、行動だったり、伝える形は様々ある。

    どんな形であれ、誰かに凝縮した想いを伝えたいと思う時に、邪魔になる美しい記憶は人生にたくさんある。

    例えば、高校の3年間だけ仲の良かった友達との思い出。時間の流れがゆるやかだった、青い春。

    例えば、寝顔を見つめて泣きたくなるほど幸福を感じた別れた恋人との思い出。夏の夜の夢のように、一瞬輝いて消えた朝ぼらけ。

    そういう、主題ではないもの。本筋から外れたものは、泣く泣く削除する。それらに共感を求めてはいないし、忘れたくない心の奥底に眠る感覚という方が正しい。

    私が私の人生を語るなら、私が私の孤独と引き換えに得たいものを描くなら、削ぎ落とすのはブヨブヨとした脂肪だけでなく、時には共感して欲しいテーマから外れる髪や肉も削る必要があるだろう。

    その痛みをもって、宝石みたいに小さくて、きらりと輝く作品にして、共感する誰かの目を惹きたいと思う。

    長く生きるということは、人生を通したクリエイティブにおいて、編集する素材を増やすことかもしれない。伝えたいと思う人との出会いや、表現の場を増やすことかもしれない。

    生きていれば、伝えたいことも増えるだろうし、伝える時に使える素材も増やすことができる。

    ポンポさんやジーンのように、青春のない暗い時代があったから、深まる他者への理解や創作論もあるだろう。

    最初から無駄のない面白くて短い映画も素晴らしい。でも、編集者である自分が「いいシーンなのに」と思いながら、たくさん諦めて、たくさん思い出に浸って作る90分もきっと素晴らしい。

    私は創作論が多く語られる物語を見ると、いつも人生だなと思う。

    なぜかよくわからなかったが、この映画を通して、やはりこの二つはよく似ていると思ったし、創作の素材はいつだって人生から拾われるのだと思った。

    90分に面白い話をおさめるのは、本当に難しい。

    この文章も、伝えたいことが多くてうまくまとめられない。3時間の映画になってしまった。

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