ちょうどいい主張と交渉

エッセイ

今日、京都に引越した。

遠くの山々は薄化粧をし、街にも風花が時折舞う程度には寒い日だった。

久しぶりに戻ってきた京都の街は、相変わらずの印象だ。こぢんまりとしていて、全てが絵になるのにどれも主役ではない、太陽までもが控えめな街

ゆるやかに湾曲する狭い道の両脇を、揃った上背の建屋が覗き込むように見守る。なぜか自分が小さくなったような心地になる。

街自体は古いはずなのに、並ぶ店は清潔で真新しく、新しいカフェとパン屋が目立つ。

意外にも飲食店の回転が早いのも特徴だ。

バス停には観光客や学生が所狭しと集まり、走行中のバスの脇を縫うように自転車が暴走している。

懐かしさとともに、見知った便利さと不便さを遠目に見て新居に着いた。

つきもののトラブルをどう対処すべきか

引越しというのはトラブルがつきものだ。

それを理解してはいても、まぁなんというか、実際に直面すると体力気力が削られる。

契約時には備え付けと記載されていたガスコンロが付いていなかったり、ドラム式洗濯機が狭い洗面所の扉を通過できなかったり、合鍵禁止の家で鍵が1つしかもらえなかったり——。

色々あるものの、どれもこれも、交渉やお金で解決するしかないことばかりで、最終的には諦めることも肝心なのだろうと思う。

物件の事情や古さや不便さ、そしてトラブルの合間に息抜きに美味しい和菓子が簡単に手に入るところも全て含め、どれをとっても私の知ってる京都だった。

諦念と共に、こういう時いつも思うのは、「諦める」という選択肢に至る前にどの程度足掻くのが「ちょうどいい主張」なのかがわからないということだ。

過去、私は基本的にいつも諦めがちだったのだが、それが良くないとここ数年周囲に指摘され、なるべく「NO」と言える大人になろうと努めてきたつもりだ。

しかし、これまでトラブルを避けたいがために唯々諾々と相手の主張を受け入れることが多かった私は、たまにその使い慣れていない「NO」が行きすぎているのではと思う。

どこまでが「搾取」で、どこまでが「大人の対応が求められること」なのか。

都合のいい人間にならないくらいの「毒」の量と使いどきを常に探っていた。

今日も含め、その手のことが上手い周囲の人を見ていて一つの結論を出すとするならば、「相手がミスをした時が交渉時」ということなのだろうと思う。

「Aの間違いは仕方ないので水に流しますね。その代わりBについて困っているのでそちらを助けてくれませんか?」

こういった形での交渉は有利だし実際通りやすく、こちらも罪悪感なく進めやすい。

仕事のできる人というのは、こういうトラブル時の交渉が上手いように思う。

引越し以外でも、何か大きな動きにはトラブルはつきものだ。調べたり事前に準備をして万全を期したつもりでもトラブルは完全に回避できないことが多い。

転がり込んでくるトラブルにストレスなく対応できるようにするには、余裕が必要だ。

体力、時間、経験、そして経済的な余裕。

歳とともに体力は衰えることを考えると、その他の余裕を増やしていくことで、年々おおらかに、そして鷹揚にトラブル対応できるようになりたい。

ここまでの話で、京都に対し私が批判的だという印象を与えてしまったなら、それは誤解であると言い添えておきたい。

長く学生時代を過ごした思い出と縁の多い土地だからこそ、良いところも苦手なところも多分に知っている。

私としては、酸いも甘いも思い出を共有した幼馴染と再会し、変わらない部分を見つけながら感慨深く思う——そんな感覚になっているところだ。

きっとこれから、変わってしまった部分にもたくさん出会い、また色々と感じるのだろう。

今日から始まった京都生活。

昔の記憶と重なるところを確かめながらも、新たに魅力を再発見していけたらいいと思う。

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