【引越し】溜め込んだ過去からの精神攻撃

エッセイ

段ボールジャングルから、今このブログを書いている。

ゴミ袋と段ボールの侵略から、かろうじて逃げ切れているが、明日はどうなっているかわからない。

食料はまさに尽きんとしている

彼らは一見すると無限に増えているように見えるのが恐ろしい。

かつては私が支配していたはずの土地で、彼らに怯えながら肩身の狭い思いをしているのが腹立たしい。

日々高さが増し屹立する巨人となった敵を見上げ、逆転した立場を確かめるように震えることしかできない。

残り数日もすれば、彼らを一掃する特殊組織が到着することはわかっているが、それまで私の精神のほうが持つかどうか——。

この日記を書きながら、かろうじて正気を保てていることを確かめることしかできない

引越し作業が嫌いという話

何の話かというと、引越しである。

現在、迫り来る転居当日に向け、絶賛荷造り中だ。

片付けているのに散らかり続ける部屋。秩序を見出し続けるジャングルと化した我が家は、生活の基盤をすでになくしている。

中腰の作業、さらにはどこから出たのか目を疑う量のゴミを運ぶだけで腰に物理攻撃を受けている。

加えて、段ボールに入れるものと入れないものとを選別する作業は、過去の記憶と向き合い続ける作業だ。

「懐かしいな。これ買った時、一緒にいた人とはもう…」

「仕事で必要で買った物だ。あの時は本当に忙しくて大変だったなぁ…」

「私はどうしてこんなもの(同人誌)この世に生み出してしまったのか…(黒歴史)」

そんな精神攻撃まで受け続けている。敵は酷いことをする厄介な相手である。

要するに、私は引越しが嫌いだ。

嫌いというよりも、もっと正確にいうなら、とても苦手なのかもしれない。

ものは増やさないようにしていても勝手に増える。脂肪とお同じで、いつの間にか目の届かないところにほど蓄えられていく。

一般的な単身者の段ボールの数は、10箱〜15箱程度らしい。調べて、あまりのコンパクトさに驚くと同時に戦慄した。私の部屋に来た人は皆、ものが少ないというが、どうやら私は隠れ肥満タイプらしい。

目を背けていたものものは過去と密接に繋がり、強制的に引越しの際に向き合わなければならなくなる。

適切な新陳代謝のためにも、定期的に引越しをするべきだとは思うが、苦痛を伴うのは確かだ。

ものの多さに辟易し、自己嫌悪に陥りながら、面倒になって全て捨ててしまいたくなるのだが——この思考そのものが自分をさらに追い詰めたりもする。

わかりやすく古くなったり価値が失われた物ならまだいい。大事にしていたはずのものさえ色褪せて見えたり、大切なコレクションさえ引っ越しになると負担に感じなくてはならない。

全てのものへの愛着はいつかは失われて、興味や関心も移ろうのを痛感すると、いつか全て手放すことになるのなら今でもそう変わらないのではないかとか、私が本当の意味で大切にしている宝物なんてないんじゃないのかとか考え始める。

いらないけど宝物だとか、もう使ってないけど捨てられないとか、そういうものを長期的に残しておける人とは、何か心の余裕みたいなものが違うのかもしれないと思う。

ものを実用や価値のみで判断し始める一時的な思考に苛まれるから、この時間がまことに苦手だ。

とはいえやらなくては進まないし、したらしたでスッキリするのもわかっている。

そのまま右から左に目を閉じたまま詰め込むこともできるが、それでは問題を先送りにしているだけだ。やって後悔はしないのに、する前はどこまでも億劫で腰が重いところが、お風呂みたいだ。

数年分の垢をしっかりと落として、さっぱりとした気分で次に進みたい。

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