お正月の特別ドラマ「スロウトレイン」をようやく観た。
脚本は、あの野木亜紀子さんが手がけている。好きな脚本家の作品なのでかなり期待値は高かったはずなのに、それを上回る素晴らしい作品であった。
舞台は鎌倉。物語に欠かせないモチーフとして、江ノ電が要所々々に登場する。
両親と祖母の三人を若くして亡くし、これまで協力して生きてきた仲睦まじい渋谷家の三姉弟が、20年以上暮らした鎌倉で次の生き方をそれぞれ選んでいく。目指すゴールの不明瞭さに各々悩みながら、次の駅を模索し、それぞれの家族の形を成していく——そんな物語だ。
「家族」と「寂しさ」というテーマにとことん向き合っており、これをお正月という時期に流すことに優しさを感じる。
皆がさまざまな過ごし方をしているだろうお正月。ある人は家族と集まり、賑やかだけど孤独が恋しくなっているかもしれない。ある人は仕事場で、いつの間にか年を越しているほど忙しかったことに、充実感と共に寂しさを感じているかもしれない。ある人は一人でのんびりと羽を伸ばしながら、家族や友人を思い少し孤独を感じているかもしれない。
さまざまな家族の形、孤独や寂しさの形がある。このドラマは、それらをすべて詳らかにしながらも、肯定してくれていた。
ただ賑やかで、おめでたく、楽しいばかりではないお正月特番があることにホッとする。
ふと立ち止まって今の自分を見つめる。気づきがあったり、考えさせられたり、共感したりするために、この時期にこのドラマを流すことには意味があると思った。
独身であることが不幸であるばかりか、誰かまで不幸にしているという幻想
編集者をしている渋谷家の長女・葉子は、妹・都子からも弟・潮からも、そして潮の恋人で担当作家の百目鬼、都子の恋人、さらには既婚の同僚からも、独身の生き方を淡く否定され、恋愛や新たな生き方を勧められることに疑問を持つ。
「お姉ちゃんが結婚しないの私たちのせいだよね」
「潮くんを解放してあげてください」
今でも十分幸せなのに、葉子を見る周囲の解釈では幸せではない。それどころか、そのことが周囲に気を遣わせている。
皆それぞれが、本当は自由に生きているのに、何か大きな決断をする局面では、それぞれ周囲の人を言い訳にして、うまく利用して逃げ道をつくっている。
そういう選択肢やある種の余裕をもたらす関係が、家族や近しい存在のありがたさでもあり、嘘から出たまことのような枷を生み出したりもする。
その人が幸福かどうかは、周囲が決めつけることでは決してない。そして、変化を恐れる理由を誰かのせいにして挑戦しないのも傲慢だ。
しかしこれらの傲慢さに、誰もが思い当たる節があるはず。
才能を親のせいにしたり、過去の失敗を家庭環境のせいにしたり、不幸や不満足を恋人のせいにしたり——口にするしないに関わらず、そして多かれ少なかれ私たちは、そういう因果を無理やり作り、勝手にそれに囚われる。
本来大事なのは、自分がどうしたいかで、向き合うべきは自分自身の不安なのに。
私自身、次の駅を自分で決めず、同乗者に委ねてしまった過去の経験を、ドラマを見ながや思い出していた。
大いに後悔した過去の一つだ。自分も傷ついたし、同乗者も大いに傷つけた。
だから、大事な決定は、必ず自分自身で行うと決めている。ドラマを見ていて、寂しさや孤独も、自分の意思で選びたいと思うことができた。
話せなかったことや書けなかったことが、私たちの話すことや書くことを決めている
好きなシーンがある。葉子が百目鬼と二人で話すシーンだ。
葉子は、かつての恋人と結婚しない選択をした理由を幼い妹弟のせいにしたが、それは建前であることを初めて話す。
恋人と口論になり、お互いの最も大事なものを傷つけあったと遠い目をする葉子。そのことをずっと言えなかったからこそ、代わりとなる理由が必要だったのだ。
葉子「私がされた否定を誰にも言いたくなかった。言ったら現実になってしまう気がして」
それに対し、百目鬼は共感を示す。自分にも言えないことがあると言って。
百目鬼「潮くん江ノ電で通勤してますよね。毎日電車に乗っているとわかるそうです。レールのほんのわずかな歪み 段差を感じる。もちろん乗客がわかるような差じゃない。ほんの数ミリの段差。ひっかかりのような。」
葉子「レールウェイ・トリロジーの?」
『レールウェイ・トリロジー』は作家である百目鬼の出した最新刊のタイトルだ。作品づくりの際の江ノ電の取材で、保線員の潮と出会った。
そしてトリロジーは三部作。これはおそらく、葉子と都子と潮の3人にかけられている。このドラマで3は大きな意味を持つ数字として何度も出てくる。
百目鬼「そう、書いた。あの潮くんの話には続きがあって、保線作業でレールを交換するんです。毎年の冬何ヶ所か。交換すると段差がすべらかになる。すべらかになったレールの上を江ノ電がすべらか~に走る。電車の中で潮は、そのすべらかさにふっと笑みをこぼす。——書けませんでした。もったいなくて。」
このセリフからは、一見打算的でひねくれ者のように見えていた百目鬼の純粋さや繊細な感性が見て取れる。恋人への深い愛情の源泉と、その時感じたであろう美しく壊れ物のような儚い感情で溢れている。
葉子と百目鬼との会話シーンでは、後に必ず「今〜って思っていますね?」という百目鬼の問いかけが出てくる。これまではその全てに対して「いいえ」と答えていた葉子。しかしこの会話のあと、3度目にして初めて、百目鬼の質問に「はい」と力強く答える。
このシーンで二人は、お互いの少しだけ似た種類の感性や孤独を交換したと思う。誰にも言えない秘密を。そして、同じ人への別の形の深い愛情を教え合った。心を明かし、本心で会話した。
編集者と作家だからこその会話、同じものを愛しているからこその会話、その全てがとても好きだ。
書けなかった話、話せなかったこと、それらが人生における大きな愛や枷や選んだ人生の輪郭であることもあるだろう。
話せなかったことや書けなかったことは私たちの話すことや書くことを決めている。
本当の「わたし」というものが仮にあるとして。
「わたし」として世間に表出している物以外の全てが、真実の「わたし」を表すこともある。
改めてそう感じる会話だった。
まだ本当の孤独を知らないかもしれないこと
もうひとつ、忘れられないシーンがある。
葉子が、百目鬼の勧めでマッチングアプリをはじめたシーン。
何人かの男性と出会い話す中で、一人の男性に言われる。
「あなたは、寂しさを知らないんですよ。本当に孤独ではないんです」
その男性は一人暮らしで、一人で完結する仕事を在宅で行なっている。そして、宅急便を受け取る時に言葉を発そうとして、なかなか出なかった経験を孤独のエピソードとして話した。
そして、今は良くても老後は寂しいだろうと男性は話すが、葉子はこれにあまり共感できずにいた。
おそらく彼女は、これまで一人でも平気だったし、私は十分幸せだし、寂しくないと思っていたと思う。
しかし、寂しさを知らないと言われて、固まってしまう。
若くして保護者を亡くし、弟妹の親代わりを務め、これまで寂しさを感じる間もなく働いてきた葉子にとって、考えさせられる言葉だったはずだ。
彼女は苦労を知っている。死別の哀しみも知っている。決してそれらを知らないとは言わないけれど、寂しさを感じずに来れたことは幸福であることを知ってしまった。
辛い時悲しい時、いつも三人であったこと。そして今、二人が別の駅を目指して進んでおり、三人ではなくなろうとしている。
実際、物語の後半では弟妹がそれぞれ家を出ていき、一人暮らしになった葉子は、はじめて「独り」であることを噛み締める。
私はこのシーンで、自分自身の最近感じていた想いの変化と重ね合わせて、胸が締め付けられた。
私も、これまでは孤独をむしろ受け入れ愛してさえいた。誰かと傷つけ合うなら一人でいたかったし、一人でいることを寂しいと思ったことがなかった。
悲しい時や、長期的な闘病といった苦難の時期にさえ、孤独であっても寂しさはなかったように思う。
しかしこの一年ほどで、「もしかするとこれが寂しいって感情なのか」という不安感のようなものを知った。
仕事で気持ちが落ち込んだり、色々な人との別れが続いたことも関係してるだろうが、年齢的なものもあるかもしれない。
きっと葉子も、自分の知らない寂しさがあるのかもしれないと、この時気づいたのではないだろうか。
そう思うと、私たちは日々、そして年々感じることが変わり、知らない感情や知らない自分に出会ったりする可能性が多分にある。
それは素晴らしいことでもあり、そして今考えている未来がいかに解像度が低いのかを知らしめる。
多くの偉人が今に集中して今を生きなさいというのは、結局は未来は見通しが立たず、今を犠牲にする価値はないからだ。
私たちは予想もしなかった事態と向き合いながら、その時のベストを都度考え対応していくしかないのかもしれない。
今感じているこの漠然とした不安感を感じなくなるほど、何かに没頭しなければならないのだ。
これは、作中でも触れられていた「雑用以外のことが人生には必要」という言葉にも繋がると思う。
自然と向き合うように、時間を忘れ自身の枠を広げる趣味を持つように、打ち込む仕事を持つように、人生の雑用でない部分が必要で、それが孤独を遠ざける。寂しくないことに繋がるのだ。
変容した「ひとり」の形
葉子ははじめて、一人で年越しをする。
一人分の年越しそばを買い、「寂び」をテーマとした本作りの仕事をしながら、いつの間にか除夜の鐘が鳴っている。
変容した「ひとり」の時間を噛み締め、亡き母を思い出し手紙をしたためるように想いを吐露する——新たな道を歩みはじめた妹と弟、そして子供を持たない選択をした自分を母はどう思うか。
孤独はそうした想いと向き合う時間を与えた。
そうして日常と化していく一人の生活を壊すように、年明け早々に妹弟が家族を連れて渋谷家に帰ってくる。
弟は同姓の恋人と、妹は韓国人の恋人と。
三人の生活だった家で、今は五人で食卓を囲んでいる。
新しい時代を示すような、新しい形の恋人たちと、新しい形の家族のあり方。
家族が出ていって1人になっても、家族が増えて年末年始には帰ってきてくれること。
家族から感じる暖かさや幸せは、決して減じることはない。
私は物語の最後に提示された一つの答えのような一人の在り方に、心強さを感じた。
ちょうど私も、年末年始には兄夫婦と甥たちが帰ってきていて、両親のもとへと集った。その時間を、その場所があることを、心からありがたいと普段よりも強く強く感じてしまう。
家族という枠組みはもっと自由で、広くていいのだと、言ってもらえたようだ。
ありがたさがわかってはじめて、本当の家族になれるのかもしれない。
ドラマを見終え、じんわりと幸せな読後に浸りながら、渋谷家の円居の中心で感じた熱が、私の胸にも確かにあるのがわかった。
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