年末年始の親戚づきあいは、同窓会に似ている

エッセイ

年末——。親戚や家族が集まると、お酒を酌み交わしながら、会っていなかった間の情報共有が行われる。

最近昇進したとか、転職が決まったとか、子供の成績が良いとか、家族で旅行したとか——たまにしか会わない近しい人との近況報告というのは、同窓会のような側面を持つことがある。

よりインパクトある報告ができた者が、その場を支配するし、弱みを見せれば不要なアドバイスを受けたり発破をかけられたりして居心地の悪い思いをしたりもする。

相手が家族や親戚なので、成果だけを見せることも多いSNSよりは苦労した過程などを含む等身大の情報が求められるし、不特定多数に向けるよりは解像度の高い詳細な情報が必要になる。

考えすぎかもしれないが、私はこの時間が結構苦手だ。

独り身でふらふらと気楽に生きている私は、公私共に大したことをしていない自覚がある。

胸を張って人様の耳に入れたい話題もないし、そもそも複数人の前で自分の話をするのは苦手だ。しかし、何も話さないわけにもいかない。

最低限、相互のコミュニケーションを満たす話題提供はしつつ、あまり長々と自分語りはしないようにしたい。

「面白くない話を堂々と話してるイタイやつ」にもなりたくないし、「自信なげで、話題に入ってこないイタイやつ」にもなりたいくない。

とにかくイタイ中年を恐れている。

なので話題を振られるといつも、適度な社交性をちらつかせながら、用意した言葉をすらすらと話し、みんなの目を見ているようで誰の目も見られずに早口で終わらせる。

あえて穴抜けにした、少し物足りないと相手が感じる情報にしておいて、答えやすい質問が来るように罠をはる。

《カードを一枚伏せ、ターンエンド——。》

しかしなかなか思うように話題は誘導できないもので、あらぬ方向から質問が来たり、興味を持たれたりして話題が膨らむこともある。

まさにデスゲーム。

私は私の話にあまり興味がないし、私の話で盛り上がる場は別に必要ない。

公私共に充実してる皆さんの話を、黙って楽しく聞かせてほしい。

輪の中心に私はふさわしくないから一刻も早く輪の一部になりたいのだ。わかってくれ。

毎年、自意識過剰な自分とどうにか折り合いをつけながら、なるべくありのままでいようと心がけているし、少しずつ居心地の悪さはマシになってきているとは思う。

しかし何かこう、特定の相手に対してはコンプレックスも相まって、格好つけてしまう自分というのはなかなかやめられないもので、気づけば虚勢を張っている。近しい相手だからこそ「こう見られたい」「こう見られたくない」みたいな欲求が見え隠れしてしまう。

私の場合はそれが年の近い兄で、基本的に家族の親愛は持ち合わせつつも、仰ぎ見る気持ちと卑近なものを冷めた目で見ている気持ちが常に同居している気がする。

私の持たないものを何もかも手に入れている相手への羨望と嫉妬。尊敬できないが敵わない相手にむける僻みも相まって、複雑化した厄介な感情だと思う。

何より私は、彼に「認められたい」のだ。これを認めるのにかなりの時間を要した。

落胆させたくないと思いながら、はやく落胆させてしまえば期待されずにすむと言う葛藤があることに気づいた時は情けなかった。

そんなことを、もう10代の頃から20年近く抱えているのだから、世話がない。

36歳にもなって、甥っ子を抱き抱えながら余裕のない内心を客観視して、人間ってそんなに変わらない生き物だなと思う。

それでも着実に変化はあると、自分に言い聞かせている。

昔は無視できないほど硬くて凹凸のある黒くて大きかった私の中の得体の知れない感覚が、最近は角が取れ小さくなって、手の中で弄べるくらいには扱いがわかるようになってきた。

ここ数年は同じサイズ感のまま、ただ指先で弄びながら捨てられずにいる。おそらく、完全に消える日は来ないのだろうと思いながら、それでも年々小綺麗で柔らかな何かに変容していくことを願っている。

兄妹というのは不思議なもので、最も近い他人であり、最も遠い血縁なのだと思う。近くて遠い。

甥っ子たちを見ていても、何か特別で厄介な、それでいて尊く得難い関係性が見て取れる。

これだけ喧嘩をして、これだけ幼少期を共有し、共に泣き共に笑い合う相手は、兄弟くらいなものだ。

彼らが、あまり大きなしこりを残さず、兄弟関係という良い骨組みだけを残して大人になればいいなと思う。

うまく骨だけ残せれば、自分で手に入れた良い人間関係で、健康的に肉付けしていくことができるだろうから。

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