昨日12/21は冬至だった。
太陽の恩恵から最も遠い日であり、夏の裏側。
今日からは陽気に転じていく——そう思うと、日一日と春に近づくようで気持ちまで陽気で晴れやかになる。
私は昔は寒い季節が好きだったが、年々冬の寒さが身に堪え、夏を恋しく思う気持ちが強まる。
冬の朝の凛とした空気は、なにものにも代えがたい清澄さと清々しさがある。しかし、日の出前に冷えた身体で通勤する時などは、太陽が恋しく、陰鬱な気持ちにもさせられる。
この時期、クリスマスを含め、各国のお祭りごとは大概冬至祭の流れを汲んでいるらしい。
冬至という太陽の力が最も弱まる時を無事に乗り越えたことを祝い祭るのだという。
人生においては、「今がどん底」と思った時ほどまだ下があるというのは絶望した経験のある人はよくいうことだが、暦は違う。
「底を打った」時期を把握できるというのはありがたい。あとは楽になる一方だと思えば、気持ちが軽くなる。
最近読んだ『夜と霧』に書かれていたが、人はいつ終わるかわからないことがとにかく耐え難く、辛いものだ。クリスマスには収容所をでて家に帰れると、なんの根拠もなくても期待してしまった人たちは、クリスマスを過ぎると一斉に弱り、亡くなったという——期限が決まっていれば耐えられることも、終わりが見えなくなると、たちまち真っ暗な絶望に変わる。
だから、「冬の辛い時期はここまでだよ」と言い合う行事は古くから大切にされたのだろうと思う。その気持ちがこの年になってわかる気がしている。
36歳、歳時に興味を持つ
最近思うのは、歳時というのは実に人の心や生活に寄り添ったものなのだなということだ。
若い頃は、形骸化した儀式や儀礼に疑問を感じたものだが、今では形だけでも必要だったから残っているのだと感じる。
仕事とは違い、それ自体に意味がある必要はなく、常に効果的で効率的である必要はない。形式的に何かをすることを通じて、間接的な意味を持っている場合も多い。
袖口のボタンのように、機能的で意味を持った服飾の工夫だったものが形骸化され、ファッションになる。それと同じように、時間経過とともに本来とは異なる意味を持って残るものというのは、案外捨ておけない性質を孕んでいるものだ。
以前、親戚付き合いについて書いたが、あれもそうだ。
お正月だからといって親戚が集まることは、お正月という儀式に意味があるからせねばならないというよりも、そうした歳時をきっかけに家族が集まり、遠くからわざわざ休みをとって顔を合わせられることに意味がある。
文化的に確立された儀式や儀礼がなければ、そんなきっかけもなく合わなくなる人がどれほどいるだろう。
お盆やお彼岸などもそうだ。多くの人は自分の生活にいっぱいいっぱいで、死者と向き合い思い出に浸る時間は日常にほとんどない。故人に思いを馳せ、先祖供養をし、愛していた人の話をする——そういうきっかけを与えてくれているのだと思う。
遅すぎるくらいだが、この歳になって、歳時というものに興味を持ち始めたらしい。周囲の人に興味を持つ余裕が、ようやく持てるようになったせいかもしれない。これを機に、学んでみるのもいいなと思う。
そんなことをここ数日思っていたら、Xで興味深い本の紹介を見つけた。
titleさんが紹介していた『わたしたちの歳時記』という本だ。
今まで無知に過ごしていた伝統や文化との出会いがありそうな一冊だ。優しくあたたかな絵柄が目をひく。
今の私だから目に留まる本だと思うと、新たな世界が広がる思いだ。
大人になってかなり経つのに、まだ毎年どこかしら変化や成長を感じられていることが嬉しい。年々興味あるものが増え、それに囲まれて生活できるようになるならば、人生においての春というのは案外後半にあるのかもしれない。
私の人生の冬至は、もう過ぎただろうか。