皆さんは、占いを見るだろうか。
私はたまに見ては楽しんでいる。しかし心身の状態によっては、「占いなんて見ないし信じない」と強い言葉を吐いたりもする。そういう時の私は、神も仏も運命も何もかもを目の敵にしているような時。要するにやさぐれている時だ。まさに目に見えないものを恐れぬ所業である。
昔はむしろ占いの類を気にしすぎていたので、そんな自分と距離を置くために、あえてこうした強気なことを口にするのもあるだろう。弱さがあると、人はその部分を守るために強い言葉を使うし、過度な拒絶を示す。
例えば試験の日や大事な仕事を控えている日の朝に、出掛けしな、めざましテレビを見たら占いが11位だったとしよう。そんなとき、意味もなくテンションが急降下することを誰が避けられるであろうか。12位ならアドバイスがもらえるのに11位はただ運勢が悪いと言われただけで何の回避策も得られない。悲しい。人にぶつかられて舌打ちされたような、ほとんど事故みたいなものだ。
こうしたちょっとした事故が堪えるような精神状態のとき、自分がそもそも弱っていると思った方がいい。
私は、嫌なことが続いたり思い通りにならないことが立て続けに起こった際など、「占いに頼るのは考えすぎて行動力が落ちてる証拠!」と見ないようにしていたこともある。
たしかにこれまで、自身の置かれた状況を改善したのは占いではなかったし、他ならぬ自身の行動によってのみ状況は改善に向かった。
大人になり、いろいろなことを社会で経験すると、現実で辛いことを解決するのは目に見えない運気や占いではなく、目に見える自分の行動力でしかないなんて、傲慢にも悟ってみたりするのだ。変に期待を裏切られていたずらに自分が傷つかないために。
これは占いに限らず、神や仏や運命や縁といった超常的なもの全てに感じたことのある拒否感だ。
わかっている、これは弱さであり傲慢だ。物質的にも精神的にも、目に見えないものは多分たくさんあって、私の力の及ばない場所でいろいろな人の助けを受けて現在があることもわかっている。
しかし強情にもそう言わないと立っていられないような時期は、心の中で存分に言えばいいと思う。
私の体感では、運気が勝手に好転したこともなければ、棚からぼた餅で状況が良くなったこともない。ひとつひとつ足場を積み上げることでしか良い景色は見られない。支えてくれた人には感謝しているが、導いてくれる人にはとうとう出会えずに足元ばかり見てここまで来たと思っている。
しかし問題は、そうした考えに偏ると、個人主義や現実主義によりすぎるというか、何か人生において頼れるものを減らしたような感覚になるのも否定できない。
これは占いに限らず、やはり神仏に対しても言えることで、私は現代社会ではわりあい信心深い方だとは思うが、一人暮らしの我が家には神棚も仏壇もない。これまで習慣にしてきた場所を失うというのは、なんだか心もとないと感じる。
私は幼少期より、祖父母の家や実家にある神棚や仏壇に手を合わせてきたが、それが自分の中で本当の意味で内実を伴ったのは、実際に身近な人が亡くなり神棚や仏壇の中におさまったときだ。
例えば、一緒に手を合わせていた祖父が亡くなり、位牌として仏壇に入ったときなどは、毎朝毎晩手を合わせていた。祖父と会話するようにお経を読んだし、夢にまで見た。
それは、当時の自分が闘病中であったこととも無関係ではない。弱っていて、かつ時間だけは有り余るほどあったため、生前の祖父にしてあげられなかったことをしたくて、とにかく会話する時間を欲していたのかもしれない。
死者に対してと言うのは、不思議なほど後悔が尽きない。お墓が必要な意味や、先祖供養することを必要とする生者の想いを、頭ではなく心で、その時初めて理解した。
つまるところ、「よりどころ」なのだ。
依存とはちょっと違う、よりどころ。
何が違うと言われれば曖昧だが、おそらく「よりどころ」と言う方が依存先は多いし、一つ一つへの依存度も低い印象になる。
自立した人が持つ、いくつかある依存先の中で、感謝する余裕を持って頼りにしているものといった感じの印象だ。
以前、NewsPicksで落合陽一氏と対談していた熊谷晋一郎氏が、自立について次のようなことを語っていた。
「自立とは、依存しないことではなくて、依存する先が多いことなのではないか」
熊谷氏はご自身が車椅子で、当事者研究をされている医師だ。そしてこの言葉は、災害時にエレベーターが使えなくても、階段が使える健常な人たちを見て思ったのだという。何か一つに依存するのではなく、一つを頼れなくても、他のもので補えることが自立——この考え方はこのような実際的なところにおいて意外にも、人間関係やあらゆる事物との付き合い方など様々なところで大切だと思う。程よい距離で付き合えば、宗教も占いも科学や医療も私たちを助けてくれるし、よりどころになるだろう。
誰かが、日本人は海外ほどカウンセリングが普及していない分、占いに行くんだと言っていた。
これは何となく納得のいく話だ。占いを頼るときというのは、弱っていたり悩んでいてどうしたらいいのかわからない時が多いだろう。
例えばカウンセリングがもっと身近で、すぐに話を聞いてもらったり自己分析を助けてもらえる場所があり、次にとるべき正しい行動に導いてくれる存在が他の選択肢としてあれば、果たして日本人は今ほど占いを見たり聞いたりするだろうか。私は否と答えるし、今よりスピリチュアルな側面が減り、娯楽性が強くなると思う。
別の人の意見や、自分以外の思考の介入が欲しい時が、人にはある。
何かに介入され、何でもいいから現状を打破する突破口が欲しくて占いを見たりもするだろう。
肉体的にも精神的にも、何かしらで行き詰まり、行動が制限されてしまうと人は行動できない分ぐるぐると思考を増やしていき、濃縮された自分だけの思想の中でしだいに溺れていく。
だから「よりどころ」に思えるものは多い方がいいし、信じられるものもきっと多い方が生きやすい。
そんな気持ちで、私はこれからもしいたけ占いを読むし、祖父母に手を合わせ、この年末も神社仏閣を参拝し、おみくじを引くだろう。時折、余裕を失ってそれらを否定しながら、それでも頼れる時には頼って生きていく。
まこと勝手だが、適切な距離感を探りながら、心のよりどころをたくさん置いておきたいと思うのだ。
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