【紙の本が好きな理由】貸し借りのコミュニケーション

エッセイ

物の貸し借りというのは、年々減っていく。

レンタルビデオ屋は減り、サブスクで配信を見るようになった。貸本屋はなくなり、電子書籍が普及した。大体のものがデジタル化され、物を所持しなくてもサブスクで事足りる。

私は一人暮らしだというのもあって、生活の中で誰かと何かを共有すること自体が、学生の頃に比べて減ったと思う。そんな中でも、紙の本はものとして所持し続け、時折お気に入りのものを家族や友人に貸したりする。貸し借りする際の本が感想をのせる媒体となり、コミュニケーションのきっかけとなっている自覚がある。

漫画以外の本は、今でも必ず紙で買う。物としても、読書体験としても、貸し借りできる点においても電子版より優れていると思っているからだ。私は紙の本が好きだ。好きなものというのは、何か確かな形で所持していたい。形あるものとしてそばに置いておきたい。一種の独占欲かもしれない。

先日、映画好きの友人からDVDを借りた。サブスクで見られても、好きな映画はDVDを買ってしまうらしい。物を、特に本以外の何かを借りたのは随分と久しぶりだったのだが、その際に言われた言葉が何か良かった。

「これでまた、会う口実ができましたね」

私は頷いて、「すぐに見て返すよ」と返した。

何かを貸すと、返してもらうという約束が同時に発生する。再び会ったときにはお礼と共に感想を語り、借りた作品の話に花を咲かせる。貸し借りしたものが通信ケーブルのようにお互いの縁を繋ぎ、お互いが持っている感性や考えの交換を可能にする。

私の中にはそんなイメージがある。

人と何かを共有するのにアナログであることは必須ではないが、アナログでの直接のコミュニケーションが、人にとって心地良く便利であることはコロナ禍に誰もが感じたはずだ。会議はリモートで良くても、家族や恋人と全てのコミュニケーションをリモート化するのは現実的ではない。直接親しい人と会えないことは不便である以上に苦痛だ。

何か体温のある関係というのは、デジタルよりもアナログで感じやすい。こうしたコミュニケーションが、残せるといいと思う。

大人になると、配偶者がいたりいなかったり、子供がいたりいなかったりして、若い頃のように友人同士の中で均一性がなくなる。似た境遇ばかりの集団から外れてもなお、その人を誘いたい。けど、誘いにくい——そうした状況も増えてくる。

私のように、誰かを誘うのに抵抗のある人は、好きなものを貸し借りするというのは良い方法だ。

私は先日借りたDVDをきっと返すだろう。もしかしたら、そのときに一冊の本を勧めるかもしれない。

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