会話中の「自分ってこんなこと考えてたんだ」
誰かと話していて、つらつらと自分の意見を述べていると、ふと「自分ってこんなこと考えてたんだ」と思うことがある。
自分の口からまろび出た考えだというのに、まるで人ごとのような感想をもつ。その後、逆輸入をするように、じわじわと自分から出た言葉が自分の考えとして違和感がなくなっていく。そう感じた時にはもう、ずっと前からそれは自分の考えであったかのような気になる。
皆さんは、そんな経験がないだろうか?
大なり小なり誰でもあることだと思うが、なぜこんな珍妙なことが起こるのか、改まって考えてみた。
恐らく、納得感を相手に与えたくてそれっぽいことを言ったら、意外にも自分で気に入ってしまい、これを本当にかねてから考えていたことにしようという気持ちが働いたのではないかと思う。
自己の一貫性を保つために、とっさに整合性を持たせた結果というわけだ。こう考えると、記憶というのは大概が再編された物語なのだなと思う。
だから、べつに天啓でもなければお告げでもない。自分の中で考えとしてまとまる前に外に出てしまい、慌てて自分のものにする——ある意味で「嘘から出た真」のようなことが起きている。
これらは、会話というライブの中でこそ生まれ得たものでもあり、他者の意見やペースと自分の考えが混ざることによる創作のようなものだ。口から出た時点では、純正の自分の意見ではないという意味で一回性の「嘘」でもあり、自分が気に入った時点で再現性ある「真」となる。
二次創作の設定があまりに有名になり、公式にも気にいられたため、公式設定となるようなものだろう。
昔話中の「あの頃の私はきっと無意識にこう考えていた」
似たような事例で言うと、誰かに自分の過去の記憶を話しているうちに、まるで人生をひとつの物語のようにしてしまうことがないだろうか。
個別の事象もすべて繋がっていたかのように、おもしろおかしく話してしまうのだ。複数のエピソードにアナロジーを見出すまではいいが、過分な脚色をしてまでそう思い込もうとすることさえあるので手に負えない。
「思えばあの頃から⚪︎⚪︎になることは決まっていたんだな……」
「この話からもわかるように、昔も今も私は⚪︎⚪︎という点で一貫してるってことか……」
「あの頃はわからなかったけど、あの時の苦労は全部、今の幸せのためだったんだよ」
そんな風に語り出した頃には、存在しない記憶とまではいかなくても、脚色された記憶が出来上がっているのではなかろうか。
当時、本当にそんな風に物事は見えていたのか。果たして自分は本当にそう感じていたのか。それらは脚色後にはもう思い出せない。後から語られたことが尤もらしいほど、その記憶で上書きされる。そうやって原文は失われてきた。
面白く話した方を自分自身も気に入っているし、体系だってよくまとまっている話の方が理解もしやすく、周囲も納得する。要するにそれっぽいのだ。
話というのは盛り上がるほうに盛られ続ける。変わり続ける口伝や叙事詩のようなものかもしれない。
何かそれっぽいことを言って過去を振り返れば、本を読んだ時に一章ごとに現れる「まとめ」にも似ていて、それ以外の本文を読まなくて良くなってしまう。
恐らく、私たちの記憶は「まとめ」の集まりだ。私はそれが悪いとも思わないし、嘘だとも思わない。
自分が語る脚色された過去も、誰かと話すうちに振ってわいた誰かの考えのような自分の考えも、再編されてようが二次創作だろうが自分という名の本には変わりない。
気に入らなければまた再解釈し、別の結末に繋がる物語にすればいい。
就職活動における「私ってそうだったのか」
普通に話しているときでもこうして度々起こる現象だが、就活などしているとそれを常に強制されている気にならないか。
自己分析や面接対策などは、「私ってそうだったのか」の連続で、もはや自分が軸にしていたものはどこへやら。整合性のために全てを失いかけることもある。何が何だか分からない。
業種も、分野も、専門も、趣味も、転職回数も、在籍年数も、その会社を選んだのにもすべてに理由を求められる。
「そこまで考えてねーよ」の連続だ。「正直に言えねーよ」と言いたいこともある。
人間長く生きていれば、いまだに解決策を見出せない消化不良の失敗や、環境に流されて気づいたらたどり着く居場所もある。
まして、成功体験を語りアピールしなければならない場で、「しっかりと考えてた道では思い通りにいかず、今はなんとなく流されてこうしてます」とは言えないのだ。
個別の事象なのに、まるで何か一つのゴールに向かっているかのような物語を語らせ、すべてを成功体験などポジティブなものに変換せねばならないのが就職活動だ。初めから無理がある。
すべてに整合性が取れ、聞こえのいい理想的な——もしくは同情的・共感的な理由がないといけない足しい。(こういうことをするから、まるで人生に意味や目的があるかのように人は錯覚させられているのかもしれない。ひいては、その崇高な目的があたかも仕事であるかのようにさえ思わせる。手段でしかないというのに。)
完全に嘘ではないことが重要で、ギリギリでなければよいとはよく言ったものだ。
必要なのは自分にまつわる「続きが気になるストーリー」だ。
「こんな素敵なキャラクターの続編の舞台が、うちの会社だったらいいのに!」と思わせなければならない。
就活無双していた友人曰く、「就活は恋愛シミュレーションゲーム。メンヘラばっかりの」らしい。あちこちフラグを立てまくって、ハーレムエンドを目指すのがミッションだ。
「志望動機は?」と聞かれたら脳内では「私のどこが好き?」と変換する。
「他社と比較して志望度は高いですか?」と聞かれたら脳内では「私とあの子、どっちが好き?」と変換する。
「どれだけ」「どんなところが」好きかを伝え、「他と比べ物にならないくらい魅力を感じている」と相手を安心させてあげる。口説いて口説いて口説きまくることが本質なのだとか。
興味深い考え方だ。
何を語り、何を語らないか。語るものに関しては、どこまでどのくらいどのように語るか。
そうした表現の選択が必要になる。思考も、過去の記憶も、就活も、後付けや誇張や割愛を含む脚色がどこかで多少なりともが必要になるのだ。
社会の中では、体系だっていて整合性のあるそれっぽい物語が広く求められているのだ。
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