【老いについて】長所さえも短所に由来していてショックを受けた話

エッセイ

私は今、36歳だ。

この一年で、驚くほど白髪が増えた。

外見的には日々「老い」を感じているが、考え方や活動の幅と言った側面では、実はあまり老いを感じていなかったりする。

「成長」や「変化」はもちろん感じるし、徹夜はできなくなったが、もともと体力がなかったので体力が激減したと言う感じではないし、むしろ若い時よりも興味の幅が増え、挑戦に臆さなくなった気がしている。

周囲の人が老いについて話し、比較して若かりしころの楽しかった話をするのを聞きながら、気づいたことがある。

——あれ? これ、私が若い頃から老けてただけじゃないか?

もともと体力がない人は、老いを感じづらい

これはおそらく体力の話だ。

私はもともと若さの特権たる爆発的な体力を持ち合わせていなかったから、他の人より落差を感じていないのかもしれない。

見た目にしても、昔は5~10歳ほど上に見られるのは当たり前だったが、そうした「老け顔人生」も数年前に終わった。年齢相応に見られ始め、最近は若干若く見られることまで出てきた。

話が逸れたが、周囲の人の語る「老い」のイメージとは次のような感じだ。

人付き合いが悪くなった、行動力が減った、冒険しなくなった、一人が好きになった、落ち着いた、丸くなった——などなど。

それらは私が若い頃に持っていた性質で、むしろ克服しようと奮闘してきた性質だった。

そう考えると、私が幼少期に受けてきた形容や他者評価というのも全て、体力によるものなのではないかと思えてくる。

「一人が好き」「集団行動が苦手」「常識人」といった精神的な性質と思われていたものも、「無口」「本好き」「インドア」といった私の内面だと思っていたものも、ただただ体力のない肉体に依拠する外的な性質だったかもしれない。

私が人に割けるだけの体力を持たないがゆえに、最低限の手数しか打たず、自身にも周囲にも許容量が少なかった可能性が出てきたのだ。

私の欠点と思われた性質が、肉体によるものだったかもしれないことはまだ良い。

しかし、私がこれまで受けてきた褒め言葉の類はどうだろう。

「大人びているね」「落ち着いてるね」「冷静だね」などの言葉は、単に体力がなく省エネだっただけかもしれない。

私はこれに気づいた時、多少なりともショックを受けた。

自身のアイデンティティの瓦解というか——数少ない美点とされてきたものまで揺らいだような気がしたのだ。

そして、この感覚には覚えがあった。

最近、「和病」という言葉を知った時に感じたものだ。

長所さえ短所に由来すること

意味は字の通り、和を重要視してそれを乱す物を「悪」と捉え、思考停止状態に陥る精神的な性質を指すらしい。日本人特有のもので、同調圧力などの原因にもなる精神疾患とどこかで書かれているのを見た。おそらくスラングのようなものだ。

私は、「和を乱す」行為が苦手だ。喧嘩や諍いといったものをなるべく起こしたくないし、当事者じゃなくても見たくない。要するに争いごとを避けるたちなのだ。

これまで、この性質ゆえに周囲を気遣ったり、空気を読んだりしてきたため、「優しい」とか「平和主義」とか、そういった称賛を受けたこともあった。自分が見たくないからしていることだと理解してはいるが、居合わせた人にそう言ってもらえるのはありがたいことだった。

しかしそうした評価は、間違いなく私が「和病」だったからだ。私にはその自覚がありすぎるほどにあった。

ただ自分が見たくない諍いを避けるためだけに、穏便な手段を選び続けていた。そこにはもしかすると、激しくても建設的なぶつかり合いがあったかもしれないのに。

私はこの言葉を知って、大きなショックを受けた。

限られた長所だと思い、手のひらで大事に包んでいたものさえ、短所に由来していた。

この言葉は、私を日本人にありふれた精神疾患にし、数少ない長所と思われていたものを根こそぎ奪っていった。

私はこうした体験から、自身の善性を含め、長年信じてきたものが揺らぐ感覚がある。

自己の一貫性の喪失

私はもともと自己の一貫性なんてものをあまり信じていないし、信用もしていないのだが、それでも長年付き合ってきた「自分」との別れには動揺する。

改めて、「これが私」と感じる意識は、その時その時で変わるのだと感じる。

意識している「瞬間瞬間の私」であるアルターエゴを統合すると、何か物語性を持った一人の人間の人生のようなものが見えてくる。

複数の考えを持つ別の人間を無理やり一つにした多細胞生物が、「個」としての自分だと思う。

SF作家・伊藤計劃はブログやエッセイの中で、いったい何のために「意識」は必要なのだろうかと自問し、「それは物語を紡ぐためだ」と言った。

私はこの考え方がとても好きだ。

若さも老いも、長所も短所もひっくり返ることがあるのなら、もうなんでもありだなといっそ身軽になる思いもある。人生に対して捨て鉢になるというよりかは、どの時点の自分にも執着しなくなる感覚といった方が近い。

私はあと何回、別の自分を経験できるだろう。これまでに信じていた何かが壊れ、あと何度傷つき、あと何度生まれ変わるのだろうか。

もともとそんなに好きでもない自分なのだから、何度も出会いと別れを繰り返すくらいでちょうどいいのかもしれない。

そう考えて、自分い本質的な何かがあるとすれば、「変化すること」だと思った。

変化し続ける中で、いつかこの文章を読み返し「誰が書いたんだ」と笑う日も来るかもしれない。

そして、自分が好きでたまらなくなるような自分とも出会える可能性もあるのだ。

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