先日母に、一冊の本を渡された。
上坂冬子さんの書いた『ひとりで暮らす、ひとりで生きる』。
亡くなった祖母が読んでいた古い本で、何本もの線が引かれていた。
タイトルを見ただけで、当時の独身女性というのは今よりもずっと肩身が狭かっただろうと容易に想像することができた。
内容はやはり、女性が独身で生きた経験から語られるメリットとデメリット、そして家庭を持つことの良いと思う点、一人で生きていける女性の強さと、家庭を持つ女性の強さ、そして孤独や死との向き合い方などが現実的にたっぷりと語られていた。
私はその本を読み終え、すぐに感想を綴った。
書いたのは主に次のようなことだったと記憶している。
- 人生をかけて没頭できる仕事に出会えなかった人や、周囲との繋がりに積極的になれない人は、親の死に目がとことん辛いのだろうということ。
- 自立した生活のために工夫はしていたつもりでも、年々必要となる工夫が増えるのだろうということ。
- 考えても悩んでも手に入らないものはあるということ。
- 一人でも家族がいても、乗り越える困難の数、もしくは形が多少異なるだけなのだということ。
最後に、祖母が線を引いている箇所を見て、若くして結婚し家庭を持った祖母もまた孤独で、みんな違う形で「ひとり」に戦っていて辛かったのだと思った、と伝えた。
本を貸してくれたことへの感謝の言葉と共に、そんな感想をメールした。
変わらないのか、変われないのか
それからしばらくして、母に会って借りていたその本を返した時、こんなこと言われた。
「この本を読んでも、あなたが変わらなかったから、本当に1人で生きていく気なんだと思った。」
私は少し、驚いた。
もう随分と前から、私が1人でしか生きていけない人間であることを、母だけはすっかり了承していると思っていたからだ。
母からしてみれば、この先家族がいなくなった後、娘が一体どうやって一人で生きていくのかと不安で、最後に覚悟を試したかったのかもしれない。
私にとっては、そもそも選択肢のないことのように思えてならなかったので、変わり方がわからなかった。
もしかしたら、借りた本を読めばすっかり改心して変われる人もいるのかもしれなかった。
だとすると、私にはとことんその能力が欠けていたことになる。
結婚を望んで、結婚に向かって努力し、誰かと寄り添う私を、私は知らなかった。
この歳まで、どういった経緯を辿ったとしても、結婚や誰かと暮らすという結論についぞ至らなかったのだ。
「向いてない」とか「できる気がしない」とか「結婚願望がないんだ」とか、色々言ってみたこともあるが、結局は私という人間の特性上、色々な意味で結婚はできなかったのだと思っている。
そんなことを考えていると、かつて中学生だった頃、ほんの少しだけ未来の自分と重ねて共感した人がいたことを思い出した。
「しない」ではなく「できない」というと決めた日
中学二年生の頃、クラスの担任が独身の国語教師だった。
思えば、30代後半から40代にかかるかどうかと言った年齢で、今の私と同年代だったかもしれない。
その担任の先生が受け持つ授業中、クラスの中心人物でお調子者の野球部の男子が、何かの拍子に「先生は結婚できなかったんだ」としつこくいじった。
最初はやんわり授業に戻そうとしていた先生だったが、それでもその場がおさまらなかったので、数拍置いてから大きな声ではっきりと話し始めた。
少しだけ顔をこわばらせて、「先生はできないんじゃなくて、結婚をしないと決めているんです」と言った。
その静かな迫力に少し気圧されつつも、笑いながら疑問の声を上げる生徒に、先生はさらに声を張った。
かつて親友がかけてきた電話を取れなかったことを後悔している。彼女は突然そう話し始めたのだ。
先生の親友は、取れなかった電話の直後に亡くなったのだという。
先生は、教室中を見渡すようにまっすぐ前を見ながら、その目にはおそらく誰も写っていないのだろう。私は当時そう思ったのを今も覚えている。
先生は、その当時のことを後悔しているとともに、自分が死なせてしまった親友を差し置いて、幸せになる気はないとか、そんなようなことを言って結婚をしない理由を語り、その話を終えたと思う。
私は、胸が苦しくなった。彼女に、どんなきっかけにしろ、この話をさせてしまったことが悲しかった。
なんでもないように振る舞い、張り付いた笑顔で授業が再開されるのを見て、一層その傷が乾いていないことを思い知らされた。
そして、彼女が板書する後ろ姿を見ながら私は、「先生は結婚しないんじゃなくて、やっぱりできない人なんだ」と思ってしまった。
先生は自分で選択肢を消していた。どうやってもできない理由や特性がある人は、やはり「できない」人だと思ってしまう。
私は、そう思った中学の頃から、「結婚しないのか」と訊かれれば、向いてないとか願望がないとか色々と言い訳しながら、最後には「できないんだ」と言おうと決めた。
少なくとも、明確な区別を持って言葉を選ぶよう心がけている。
とはいえ、久しぶりに思い出したエピソードに、私はこんな若い頃から結婚できない気がしていたんだなと苦笑してしまう。
自分を劇的に変えなくても、共感できる良い本だった
私を説得はしなくても、この本はとてもいい本だった。
きっと、著者である上坂冬子さんも、説得のためだけに書いたのではあるまい。
シングルライフの入り口でほんの少し悩んでいる人に声をかけ、引き返せる人の背中は押しつつ、引き返せない人には安心させるような言葉を残してくれていると思う。
最後に、本書の中で、記憶に残ったもののうちの一つを紹介したい。
女に生まれてよかったと思うか、悪かったと思うかと聞く人がある。呆れるばかりの愚問というべきだろう。選択のチャンスを与えられてこの世に生まれてきた人などいるはずがないからだ。同じような意味で独身で生きてきたことに悔いはないかなどというのも愚問だと、長いあいだ私は思ってきた。だが、先ごろ古い婦人雑誌の読者投稿欄に載っていた句を思い出してから、いささか考えを変えている。
〈死んだつもりの見合い しあわせ桐の花〉
たしかに女に生まれたことに選択の余地はなかったけれど、本気で人生の方向転換を考えたなら、死んだつもりで好きでもない男に寄り添うことだってできたのではないか。もしそうしていれば、それなりに私も今とは別な人生を案外楽しんでいたかもしれない。死んだつもりで方向転換のできる自虐性とたくましさは女の特性である。たぶん、私にそれが欠けていたのだろう。
上坂冬子『ひとりで暮らす、ひとりで生きる』
私にも、別の逞しさはあるかもしれないが、死んだつもりで誰かと寄り添うたくましさがなかったのだと思う。
別の場所で、死んだつもりでできることが私にもあれば、その時は全力で挑みたいものだ。
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