空間の埋め方に、興味の偏りが現れると思った話

エッセイ

会社ではメインの業務以外に、こまごまとした雑務が発生する。

おそらく多かれ少なかれ、どこの職場にもあるだろう。

私は研究関係の仕事なので、業務に直接かかわる解析機器に関することや実験試薬に関するものもここに含まれてくる。

定期会議の設定やファシリテーター、外部対応、機器メンテナンス、器材の発注、試茶の管理などなど——持ち回りで行うものもあれば、担当がある程度決まっているものもある。

最近異動になった私は、業務に使用する器材や試薬の在庫管理や発注を担当することになったのだが、これが意外に時間をとられる。

何せ数も多ければ種類も多い。

自分が使用したことのないものまで含まれていると、使用頻度や必要な量も把握が難しい。

それでも目算する必要があるので、リスト化し、周囲を観察しながら担当外の業務の進行などについてもある程度は目を配らせる。

足りないくらいなら多めに買ってストックしておけば良いじゃないか、と思うかもしれないが、それがそうもいかない。

倉庫の場所には限りがあるし、ものによっては使用期限がタイトなものもあるし時期により予算も気にする必要がある。さらに面倒なことに、温度管理が必要になものもある。そういったスペースはさらに限られる。

限られたスペースに何をどれだけ詰めるか。それが問題だ。

限られた空間は関心のあるもので埋められる

そしてそれ以上に、他の人の行動にどれだけ興味や意識を割けるかも重要になってくる。

正直な話、自分以外が良く使うものは、把握すらしていなかったりする。交流のない人なら尚更だ。

それは興味関心とか言う話以前の問題かも知れない。識閾上にすらないのだから。

こう考えると、家の中のものを把握している母親という存在は、すごいと思う。

子供が複数いる家庭などは、それぞれの子供の持ち物や、学校で必要になるものまで、すべて本人以上に知っておかなければならない。

家族全員に興味をもち、ひとりひとりに気を配っていないとできないことだ。

話がそれたが、職場では多くの人が使うもの、汎用性の高いもの、使用期限のないもの、回転率の高いものは納期・在庫数ともに把握しやすい。

しかし、自分が仕事で使用しないものや、あまり交流のない人が使用しているもの、正直何に使うのかもわからないようなものは、かなり忘れやすい。

申し訳ないが、興味とか関心の問題だと思ってる。

私はあまり、多くの人に関心をもって積極的に接する方ではないので、そのせいで不便を被る人を出してはいけないと自戒している。

人に関心がある人というのは本当にすごいと思うのだが、誰が今何をしていて、何で困っていて、どのくらい忙しくしているのかなど、いろいろな情報を常に把握している。

それが他部署であろうが何であろうが関係ない。あらゆる噂に対して耳がはやいから不思議だ。

そこまでは無理でも、私ももう少し関心の幅を広げていかねばならない。

公共のスペースを、偏りのある自身の認知で埋めるわけにはいかない。

必要にせまられた作業ではなく関心の中でものが増える

限られたスペースの埋め方という意味では、一人暮らしの家にも共通点を感じる。

関心の高いものばかりにその比重が偏り、忘れ去られているものも多い。

ものをなるべく増やしたくないと思いながらも増えるものがあるし、勝手にどんどん減るものもある。

年々、服や装飾品は減り、本ばかり増えるのも、興味と愛情の無りだろう。

肥大化する品目は愛と関心があるものに偏るらしい。

そういえば家に来た人たちが言うには、私のキッチンはものが少なすぎて使いにくいそうだ。調理器具も食器も最低限しか置きたくないと思っていたが、それも食へのこだわりの薄さからかもしれない。

食事は作業だと思っている節があるので、それが物の量に表れている。特に筋トレを趣味にしてからは同じものばかり食べるようになり、作業的な感覚に拍車がかかっている自覚がある。

過不足はどちらも、何かしらの欠如に他ならない。何事もバランスが大事だ。

歳を重ねるほどに、あれほど嫌厭していた中庸の得難さと素晴らしいさを痛感するから不思議だ。

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