帰省してきた甥っ子たちと、久々の再開を果たした。
約2年ぶりに会った彼らは、8歳と4歳になり、背は伸びて大人びた表情をするようになっていた。
感じたことにただ反応するだけじゃなく、受け止め、沢山の言葉を駆使して思いを伝えようとする姿が愛おしい。
そうして非常に冷静な判断をしたかと思えば、どうしようもなく子供っぽい剥き出しの感情を見せたり、思考を放棄して力技で甘えてきたりもするから本当に不思議だ。
膝の上で大人しくしていたかと思えば、身体中を使って走り回ったり叫んだりする。
モザイク状に配置される彼らの知性と情動、社会性と野生味、自制と爆発——。
人との距離の取り方も二極化しているように見え、人見知りしたかと思えば、思い切り抱きつく。大人になると失われるその振り幅に、不安定さと紙一重のエネルギーを感じる。
このエントロピーが次第に小さくなろうとしている感じは、大人への移行期特有のものなのだろう。そんなことを考えながら、大人と子供という言葉の曖昧さや身勝手さにも直面したりする。
彼らに内在する大人と子供のグラデーションを見つめながら、これこそが人間なのではないかと思うことがある。
大人になると体力がなくなることと、感じたり考えたりしたことを隠すのが上手くなるだけで、おそらく本質的に感じたりしたいと思うことは、この時期のリアクションと同じなのではないか。
大人っぽくも子供っぽくも振る舞えるありのままの自由さは、本来あるべき自然体のような気がしてくる。
直裁すぎる表現が子供らしいと大人が感じてしまうのは、大人になると思っていても言えないことが多すぎるからだ。
羨ましいけれどそこには戻れない——そんなある種の羨望を孕んだ追憶が、地続きの過去にこちらの都合で身勝手に引いた「子供」の時代を生み出しているのかもしれない。
彼らは、すでに大人のようでもあるし、どこまでも子供に思うときもある。
対面するペルソナごとに、これからも印象は変わるのだろう。
いったい人はいつから大人になるのだろうか。
子供のように自由に振る舞いたい大人と、大人に見られたくて大人っぽく振る舞う子供とでは、どちらが大人なのか。
最終的にどのような内面・遺伝性を持っていようとも外面・表現型に現れるものが評価されるなら、脳内会議の末に多数決で顕在化する内面が決められてもおかしくはないのか。
私の中に永遠に棲みついている子供の部分が、最近肥大化している気がしてならない。私を大人として信頼してくれている甥っ子たちのためにも、そちらがマジョリティにならないことを祈ろう。