必要なのは身近な気晴らしと夢中になれる別世界【暇と退屈の倫理学】

読書レビュー

YouTubeをぼんやり見ていたら、ホリエモンこと堀江貴文さんが、「人生は盛大な暇つぶしですから」と何気なく言った。

諦念も何もなく、すでに受け入れた当たり前のことのように淡々と言ったので、なんとなく記憶に残った。

どれだけ好奇心旺盛で充実した生活を送っているように見える人でも、大志や大義に突き動かされたり圧倒的な熱量で何かに夢中にな続けているのではなく、暇つぶしの感覚はどこかに持ち続けているのだなと思った。

人生が暇つぶしだと言ったのは、パスカルだったなと思い、アニメ「PSYCHO-PASS」に影響されて購入したものの読破を挫折した『パンセ』を思い出して苦笑いする。

再挑戦のために手に取ろうかと悩んだが、分厚さもありなんとなく気後れして目を滑らせていると、本棚にある國分功一郎さんの書いた『暇と退屈の倫理学』に目が留まった。

とても良い本だったことは覚えていたが、断続的に読んで記憶が定着しておらず、読み返したいと思っていた本だ。

パラパラとめくると、冒頭で「本書は一息に通読されることを目指して書かれている」と明言されていた。

私は、「暇と退屈の倫理学」を読み直した。

毎日忙しくて余裕はないのに、なんとなく仕事にも日々の生活にも退屈していると思っていたその時の私には、最適な本だった

一度目に読んだときよりも、自分に刺さる内容が多くて、改めて素晴らしい本だと思った。

結論、この本を読んだからと言って、すぐに今の自分の生き方が変わるわけではないと思う。

何かしらの不満足や、充実感を得られずいる人の悩みが一気に解決するような実用的な方法は存在しない。

明日も、同じような生活を、続けることになる。

しかし、少しだけ、気の持ちようが変わる。退屈との付き合い方が変わる。私はそうだった。

暇と退屈の種類

『暇と退屈の倫理学』では、暇と退屈を4つの組み合わせで解説し、ハイデッガーの分類した退屈の形式に当てはめている。

  • 暇であり、かつ退屈している … 〈退屈の第一形式〉
  • 暇ではないが、退屈している … 〈退屈の第二形式〉
  • 暇であるが、退屈していない
  • 暇がないし、退屈してもいない

暇で退屈している状態というのは、電車を駅で待っているときなどが例に挙げられる。

何か他にすべきことがあるのにその場に縛られる状況に、焦っている。このような退屈を感じている人は、仕事の奴隷になっているという。

これには、多くの人に覚えがあるはずだ。私にはこの焦りに囚われていた時期がある。

生産性のない時間に焦ってしまうのは、不健全だ。この社会に適合するように調教されているようで、普通ではないのが今ではわかる。

そして、暇ではないが退屈しているというのは、時間を作ってパーティに参加したりして時間に追われてはいないが、作った暇の中で満足できず、退屈してしまっている状態。

これもよくわかる。気晴らしに出てみたもののいまいち満足できなかったり、知人との集まりの最中に、「帰りたい…」なんて考える自分に気づいて罪悪感を覚えたことも一度や二度ではない。

本の中でも、「人間が正気で生活していくとは、気晴らしと退屈が絡み合った。この第二形式を生きることではないだろうか?」と言っている。

そして、この「退屈の第二形式」が極まると、「なんとなく退屈だ」と全てがどうでもよく感じる退屈の第三形式に進化するというのだ。

この内なる「なんとなく退屈だ」の声から耳を背けるために、仕事の奴隷となり時間に追われ、ふとした瞬間に生まれた暇を焦るばかりで楽しめない、つまりは第1形式の退屈をもたらすようになるという。

私はこの説明を読んで、最近の自分はどれか一つの退屈に喘いでいたのではなく、第一から第三の退屈のループから逃れられないことによる不満や不安だったのだと気づいた。

仕事や生活や趣味など、ある程度決まった習慣の中で退屈をループしている気がして、萎えていたのだ。

そしてそれを知ることが、この本での結論の一つであり、暇や退屈と向き合うための一歩だった。

二つの結論

この本においては、通読を通して得られた体験に加えて、さらにもう二つの結論が書かれている。

一つは、退屈との共存。贅沢を取り戻し、浪費をすることと書かれている。

退屈の第二形式の中で存分に気晴らしを享受できるようになろうということだ。

楽しめるものを増やすには、「楽しむための訓練」や「教養」が必要になることもあると述べられている。

これに関して、私はとても納得がいった。関心というのはある程度、知識や経験や教養によって増えていくものだと思っている。

知らなければ楽しめないものがこの世にはいくらでもある。本を読んで、全く知らない世界のことを知ったことをきっかけに、身近なものへの興味関心がグッと上がる体験を私もしたことがある。

好きになった小説やゲームやアニメに紐付く歴史や文化を勉強しようと、今まで嫌厭してきた種類の本に向きあうようになったこともある。

こうして楽しめることを増やすというのは、確かに重要なことだった。

この本では、最後の結論として、こうした退屈との共存を余儀無くされた生から外れていくことを挙げている。

今いる退屈な世界から、没頭し一時的にでも退屈を忘れられる何らかの環世界へと移動して行くこと。

本書ではこの「環世界」という言葉が頻出する。これは、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルという生物学者の言葉を使い、各生物が見ている世界の違いについて述べたものだ。そして退屈な状態から「とりさらわれ」て、環世界を移動する能力を環世界間移動能力と名付けている。

例えば、忙しい仕事から離れてタバコを吸うとき、一時的にタバコの煙にとりさらわれて、喫煙者の環世界に入り、すぐにまた出ていく。

このように自由度を持って移動することは、退屈を助長させる能力でもあり、退屈への対策にもなり得るというのだ。

盲導犬になるには、訓練によって犬の環世界から人間の環世界に近づかなければなれない。

高校生が大学進学し、宇宙物理学について四年間で学んだ後には、同じ夜空を眺めても全く違う夜空を見ることになる。

こうした例をもって、私たちが環世界をわたり歩くことができることについて触れられている。

私が最近感じていた退屈に大きな影響力を持つのは、おそらくはこちらの結論の方だ。

つまり、自分の今いる世界を充実させ気晴らしをし続けながら、強烈に何かにとりさらわれる経験をし、一定期間、別の環世界に生きることを楽しむことでループから逃れられるかもしれない。

私は、本書でいう「とりさらわれる」状態というのが、ゲーテが創作活動において大事にしていた「デモーニッシュ(悪魔的な、取り憑かれたような)なものを信じる」という発言にも似ていると感じる。

デモーニッシュというのは、つまり自分でも思いがけないような状態のことをさす。

そういう状態を意図的に作り出せればいいが、私たちはその機会が来るのを待つことしかできない。そう思っていた。

しかし本書では、ジル・ドゥルーズのインタビューのエピソードを紹介し、これを否定している。彼は20世紀のポスト構造主義の哲学者であり著作に映画論や美術論もある。

「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのですか?」と訊かれたジル・ドゥルーズは、「私は待ち構えているのだ」と答えたという。

つまり彼は、自分がとりさらわれる瞬間を待っていた。そして、それが起きやすい場所を知っていたのだ。

獣が、獲物の通りやすい狩場を見つけ、そこで待ち構えるのと同じように。

彼にとっては、それが美術館や映画館だった。だから足繁く通ったのだ。

私にとって、本というのは、狩場であったのだと思った。良質な読書体験に私はいつも、とりさらわれていた。

それが起きやすいのがどのようなジャンルの本か、誰の書いた本か、どこから出ている本かなど、もっと詳しく知っていけば、獲物と出会える確率はさらに上がるのかもしれない。

気づいていないだけで、他にも私が通うべき場所はあるのだろう。

本書を読み、私はもっと興味関心のある物、自分自身に影響を与える物や人、そしてそれらと出会える場所を知らなければならないと思った。そしてそれを広げる訓練もしなければならないと思った。

それが人生を充実させ、自分の生きる環世界を増やし、退屈との付き合い方を上達させる方法なのだ。

ふと思い出したこと

私はふと、会社でメンタルヘルス講習を受講した時のことを思い出した。

ストレス解消法は、質以上に量が重要ですと教わった。好きなことやリラックス法をできる限り持っておくことが重要だと。

先ほどの喫煙者の環世界のように、あまりにも短い時間の「とりさらわれ」では、私たちはまたすぐに次の気晴らしや環世界を求めるようになってしまう。

その時に、他にも候補がいくつもあれば、退屈はまたいっとき忘れることができる。

日々の心身のケアも、人生における退屈のケアも、効果的なものを探しながら数を揃えていく

これが私の出した結論だ。

冒頭のホリエモンの話に戻るが、彼はとてもパワフルで、退屈などしないように見える。

おそらく見えているだけなのだが、それはもしかすると、我々よりも多くの環世界と気晴らしを持っているから、そのように見えるのかもしれない。

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