読書は思索の下位互換か
ショーペンハウアーの『読書について』を読んだことがあるだろうか。
哲学書の本の中では大変に読みやすく、『幸福について』と併せておすすめしやすい名著である。
この本には、以下のようなことが書かれている。
「自分で考えることと、本を読むことでは、精神に及ぼす影響に信じ難いほど大きな開きがある。」
「読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人に委ねることだ。」
アルトゥル・ショーペンハウアー『読書について』
これを読んだ当時、少なからずショックを受けた。
私は自分自身を、悩み事や考え事の多い人間であると認識していたためだ。
読書はそれ自体が好きであるし、読みながら考えごとに耽り、別世界に行けるという意味で単純な逃避先にもなり得る。
しかしそれだけでなく、何かについて悩み、考えても答えが出ない時には、先人に教えを乞うように読書に没頭する。
そうして自身に必要な言葉に出会うと、その本に勝手に私淑するのだ。
しかし読書を含むこの一連の行為は、「考える代わり」の行動でしかなかったという。
これは例えば、話題の映画を観た後に、自分で言語化するよりもまず巷に溢れるレビューを漁り、自分の抱いた感想とぴたりと合うレビューをみつけて満足するような行為だったのだろうか?
悩んだつもりになっていただけで、思索から逃げていたのだろうか?
読書は誰かの考えへのリアクションなのか
ニーチェがどこかで「読書で得たものは小石を投げて水面に波紋ができるのと同じく反応に過ぎない」といっていたのを思い出した。
膨大な読書をし、文献学までおさめていながら、『この人を見よ』などでも度々この手の話に触れており、考えることと本を読むことを明確に区別している。
ニーチェは、本を読むことを辞めるきっかけになった病気を賛美までしているのだ。
私が本を読んであれこれ考えていることは、悩み事や考え事ではなく小石の作り出した波紋で、思索を重ねた他者の重みのある意見に当惑して心乱されるリアクションに過ぎなかったのかもしれない。
果たして、これまでに自分から発信されたアクションはあったのだろうか。
頭の中がうるさいタイプだと長年思ってきたが、ひょっとすると私は考え事なんて何もしていなくて、ただどうにもならないことに心を乱されたり、過去を反芻して悩んでいる時間が長いだけの人間だったのかもしれない。……つらい。
そう思い至った時、私はその非建設性に少々落ち込んだし、今この文を書きながら思い出してちょっと落ち込んでいる。
考えることの強制性
話は少し変わるが、私の好きなYouTube、Podcastに、ゆる言語学ラジオというチャンネルがある。
たびたび話題にしているが、今年から見始め、本との良い出会いの場になっている。
読書家で言語化が上手いパーソナリティ2人の会話は、笑いと気づきを与えてくれる。
その番組パーソナリティの1人、言語オタクの水野さんは、「自分は考え事をしない人間です」と公言している。
私はそれを聞くといつも、考え事をしない人なんて本当にいるのか、と驚きつつ疑問に思っていた。
悩んだり考え事ばかりで頭の中がうるさい自分からは考えられないなと思っていたし、特に彼のような読書家で自分の意見をはっきりと持つ思慮深い人間が、考え事をしないなんてことがあり得るのかと、不思議に思った。
そんな水野さんがある時、珍しく考え事をしたエピソードを話していた。
講談社選書メチエの『心はこうして創られる』という本の紹介回で、「自分はマジョリティの寄せ集めのような人間だと思っていたが、そうではないのかもしれないと良い意味で考えを改めさせられた」というような話をしていた。
これを含むシリーズは、特に私の好きな放送回で、是非聴いていただきたいのだが、ここでは詳細は省こうと思う。
ただ、その回の最後に水野さんの言った言葉が、迷走していた私に一筋の光を見せた。
「自分がマジョリティではない感覚に陥ると、人は考え始める」
——ああ。それならわかる、と私は思った。
幼少期よりマイノリティに喘ぐ事の多かった私は、事実マイノリティだったのかは別として、自分自身や馴染めない周囲の環境に否定的だった。
普通ではないのだと思う時、人は自分を分析したり、周囲を観察したりする。
それは「違う」ことへの焦りなのかもしれない。
ある種の強制力をもって、自然とそうしていた。
そうして堆積した感覚は、読書により呼び起こされ、再び思考へと誘ったかもしれない。
「考えもしなかった」ことに出会う読書でなく「それは私も気になっていたが、そういう考え方もあるのか!」といった気づきは、小石によるただの波紋だけではなく、自分の中の心の模様と干渉するのではなかろうか。
つまり、私は「考える」をしていたことになる。
考えていると思っていたことの中には、厳密には違うものもあったろうが、少なくとも私は考え事はしてきた人間だと思えた。あー、良かった。
今回のことで、考えるということが細分化でき、解像度を上げることができた。
ここでもう一点、考えることについて先人の言葉を紹介しておきたい。
先日紹介した名著、『暇と退屈の倫理学』では、ジル・ドゥルーズが「思考は強制される」ものだと言っていることに触れられている。
「人間はめったにものを考えたりなどしない。 (中略) 人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことである。「考えよう!」という気持ちが高まってものを考えるのではなくて、むしろ何かショック(=不法侵入)を受けて考える」
「ものを考えるとは、それまで自分の生を導いてくれていた習慣が多かれ少なかれ破壊される過程と切り離せない」
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
「考えること」について一通り考えた後の私にとって、この言葉はなるほどと納得のいくものになった。
最初にこの文章を読んだ時は、例えば過去の嫌なエピソードを何度も思い出してしまうような反芻思考を連想し、たしかに強制的で抜け出せない思考はあるな、などと思っていた。
私は、自分の中で思考の侵略を受けることを「浸潤性がある」と呼んだりしていたが、それはうちなる問題だったからだ。
世界とのつながりの中で起こる危機感が強制的な思考をもたらすと理解した今では、「強制的」もしくは「侵略的」といった方が適していると感じられる。
自分が考え事をしない人間かもしれないと悩んだが、よく考えたら意味がわからないほどすでに考え込んでいた
今回のこの「私は考え事をする人間か、否か」というふって沸いた問いは、私の長年信じてきたものを壊しかけた。
考えがちで悩みがちな特性を大事にしていたわけではないが、アイデンティティ・クライシスを起こしかけたと言える。
しかし、よくよく考えてみると、そこまで考え込んで悩んでいるのに、その考え事が「私は考え事をする人間か」というのはなんだか滑稽で、落語のオチみたいだ。
しかし本人は大いに真面目だ。
皆さんは、考え事をする人間だろうか? 一度考えてみてほしい。
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