セネカ絶賛の偉人【歴史に名を残さなかった本の中の名脇役】

エッセイ

たまに、印象的な脇役に出会う。

本や漫画などで、「もっとこの人について教えてくれよ!」と叫びたくなるような、魅力と登場頻度に釣り合いが取れていない人物のことだ。

知ってしまったが最後、たった一文、たった一ページ、たった一コマが私の牢となる。

何度読んでも、いくら他を探しても、そこ・・以外にその人物は決して現れない。スピンオフもでない。

出会えた喜びは、一瞬にして惜別へと変換され、もう一度新たな出会いを願っても追憶しか叶わない。

そんな経験が、あなたにもないだろうか?

印象的な脇役の罪深さ

経験ある人ならわかると思うが、そういった人は、人生のクライマックスだけを切り取られて登場したりもする。

人生における最盛期や死に際などをもって、その作品を華麗に飾る。

それゆえに読者を惹きつけるのだが、その人の来し方行く末、どこをとっても圧倒的に描写が足りない。

格好いいセリフや謎に満ちた行動のみを残し、去ったあとは塵ひとつ残さない。

その潔さが魅力の一つだと理解しながらも、「もう少し、あとを濁してくれよ……」と矛盾した感情を掻き立てるのだ。

——とまぁ、このようしてオタクは生まれ、待てどもこない供給に喘ぐとついには狂い、その人物の魅力から迸る可能性に溺れ、同人誌を作ったりするがそれはまた別の話だ。

カヌス・ユリウスという人について

さて本題に入ろう。

カヌス・ユリウスという人物をご存知だろうか。

私もよく知らない。

セネカの著書である『人生の短さについて』にほんの少しだけ出てくる人物であること以外は、本当に何も知らない。悲しい……。

たしか本書の解説だったか脚注だったかにも、この本でセネカにより言及されている以外で、どこにもきちんとした記録は残されていない人物であることが記されていたと思う。

セネカが絶賛するほどの生き様を残した偉人でありながら、その名をほとんど歴史に残さずに死んでいった人。そんな、あまりにも格好良すぎる人物を知ってしまったのだ。

唯一の救いは、名前がわかることだ。

そうでなければ、このブログのタイトルは、「せめて名前が知りたい偉人」になるところだった。

以下に、数少ないカヌス・ユリウスについての文章の一部を引用する。

カヌス・ユリウスは、じつに偉大な人物だ。彼はわれわれと同じ時代に生まれた人だが、その事実も、彼への賞賛を差し控える理由にはならない。その彼が、ガイウス帝と、長時間にわたって口論をした。その後、彼はその場を立ち去ろうとしたのだが、そのとき、あのファラリス[のように残忍な帝] が、こう言った。「おまえが、馬鹿げた希望でいい気にならぬよう、余は、おまえをひっ捕らえるよう命じたからな」。するとカヌスは、こう答えた「まことに感謝いたします。いとも尊き皇帝陛下」

きみは、信じられるかね。カヌスは、処刑されるまでの十日間を、まったく心を乱すことなく過ごしたのである。そのとき、この人物の言ったこと、おこなったこと、そしてその心の安定のさまは、とても真実とは思えないほどであった。彼は、[牢の中で] ボードゲームをして、あそんでいた。すると、百人隊長が、これから処刑される人たちの群れを引き連れてやってきて、カヌスも連れてくるように命じた。名前を呼ばれると、彼は駒を数え、対戦相手に向かって、「いいかい、ぼくが死んだ後で、自分が勝ったなんて噓はつかないでくれよ」と言った。そして、百人隊長におじぎをすると、「あなたは、わたしが駒ひとつ勝っていたことの証人になってくださいね」と言ったのである。
きみは、カヌスが、そのゲーム盤で、あそんでいたと思うかね。ちがう。[ガイウス帝を]もてあそんでいたのだ。友人たちは、これほどの人物を失うことを悲しんだ。だが、カヌスはこう言った。「なぜ、悲しむのですか。きみたちは、魂が不死かどうかを知りたがっていたではありませんか。ぼくは、まもなく、その答えを知ることになるのですよ」彼は、最期のときになっても真理の探究をやめず、自分の死すらも探究の対象にしていたのである。

セネカ『人生の短さについて』

いやカッコ良すぎるて……。

死ぬ間際の余裕では絶対にない。窮地に立たされていながらこの強者感。皇帝は完全に勝負には負けていると言っていい。

このあとの彼についての描写は、もうほんの数行しか残されていない。

悲しいことに、公開処刑されてしまうのだ。

だが、その際の師匠とのやりとりもまた良い。

セネカも褒め称えているが、いかなる状況でも心を乱すことなく「心の安定」を保ち、最期まで哲学を心に死んでいく描写は誇り高く、また徳高いさまを示している。

残りの数行はぜひ、本書を手に取って読んでみてほしい。ここのページだけでも読んでほしい。(オタクの布教)

というのは冗談で、ストア派は実践哲学なのでわかりやすく、特にセネカのこの本は哲学書の中でもとても読みやすいので、全部通して読むのにそれほど時間はかからないし、読んだことを後悔しない良い本だと思うのでおすすめだ。

たった一人でも語り継ぐ事の重要性

この本を読んだとき、私はセネカが書き残してくれたことに感謝した。

彼のように素晴らしい生き方をし、多くの人に愛され惜しまれて亡くなっていった時代の犠牲者で、一文字もこの世に残されていない人がどんなに多くいるのだろうと考えると悲しくなる。

その時代を精一杯に生き抜いた彼らにとって、名前が残るかどうかなんていうのは些事かもしれない。

しかし、後世を生きる私たちからすれば、浅はかにも「高潔に生きたなら報われてほしい」などと傲慢なことを考えてしまう。

歴史に名が残ることが全てではもちろんない。が、素晴らしい生き様をした偉人が賞賛されて欲しいとか、人々の記憶に残って欲しいと思ってしまう。

最初に脇役と失礼な書き方をしたが、それは誰かの著書や、とある物語の中においてはという視点の話だ。彼らは彼らの人生の物語を、人々を惹きつけ魅了する素晴らしい主役として生き抜いたのだ。

だから、生者死者を問わず、もしあなたの周りに偉大な生き方をしている人がいたなら、ぜひとも書き残したり積極的に語り継いだりして欲しいと思う。

そうすることで、後世に残る素晴らしい人物の行いが増えていけば良いと思う。

最後に、身近な人について書き残す試み

書き残して欲しいと言ったからには、自身がそれをしないのは良くないことだろう。

なので最後に、私が語り継ぎたい身近な人について少しだけ触れて終わりにしようと思う。曾祖父母にあたる人物についてだ。

私は生前の彼らを知らないが、親族の話によると戦中の鹿児島で立派に生きた人たちだっと聞いている。

曽祖父は自分に厳しい人で、戦中は職業軍人として生き、戦後は共に戦った仲間と国のために祈り、信心深く過ごしたという。曽祖母は周囲の多くの人に慕われていた女傑で学も高く、亡くなった際には地方新聞にまで掲載されたらしい。

そんなふうに多くの人のことを支えて生きた、沢山の先人の積み重ねが今の時代を作っていると思うと、少し背筋が伸びるようだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました