意図的な習慣化ではない「慣れ」の怖さ
「慣れ」とは恐ろしいもので、知らぬ間に近接するものの形に自分を変えてしまう。
苦痛を和らげ、馴化による感覚の麻痺を起こし、価値観さえ変化させることがある。
うまく利用すれば良い習慣で生活を矯正し、結果的に思ってもみなかった場所まで行けることもあるが、悪習慣や思考の癖、もっと言えば国の政治や文化も、世にはびこる流行や偏見や差別も、一度始まると「慣れ」によって円滑に続いていってしまう可能性がある。
ふと立ち止まって考えてみる。良い習慣とされているものが誰にとって“良い”のか、私は本当にその“良い”を目指しているのか、習慣に紛れる惰性の中で考えないあいだに、どこかへ漂流することもあるはずだ。
最近、「私は思っている以上に自分への理解が浅いなぁ」と思うことが多い。
刻一刻と変化しているものだからかもしれないが、せめて地図の上に今の自分の場所から見える景色をピン止めするように、私の現在地につながる周辺情報くらいは知っておきたい。
自分が何を好んで、何に飽きており、どんな環境になじみ、どこを目指そうとしているのか——。
馴致とは、非自己の自己化ではないか?
小児科医で当事者研究で有名な熊谷晋一郎氏は、自己と非自己(現象)の境界線について「世界体験の中で次々に立ち上がる事象のうち、最も再現度高く反復される事象系列こそが、「身体」の輪郭として生起する」と発言している。
これは、自分の身体の輪郭が、周囲の物の輪郭で形成されていることを非常にうまく表現していると思う。
私は最近、趣味や職業や周辺環境といった刺激への「慣れ」というのは、自分ではなかったものを構成要素として取り入れるような行為だなと考えていた。
食事や生殖行為などはその典型かもしれないが、自分の日々感じている好き嫌いや、合う合わないといった感覚は全て、自分の一部にしたいものものを選別していると言える。
時間をかけても自分にしっくりこないものも当然あるから、取り込んでみて合わなかった要素は「自分の一部にはなれなかった」非自己としてきちんと距離を取らねばならないと思う。
これを誤魔化すと、ただでさえ曖昧な自己と非自己の境界がさらにわからなくなる。
話は変わるが、絵を描くことについてのこんな逸話がある。
聞いた話によると、一部の画家は絵にするモチーフそのものを描くのではなく、その周辺の空気を描いているのだという。
りんごではなく、りんごの周りの空気を描く。
私という人間は、私の周辺にある私以外のものの形によって、描かれている。
そう聞くと、周囲にあるものの影響を人は受けないはずはないのだと改めて思う。
私が私の周りにあるものに無頓着でいることは、私自身に無頓着であることと同義だ。
ここ数年、私は自分の周囲にある当たり前だと思っているものを放置せず、なるべくひとつひとつ手に取るよう努めている。
生活の中のちょっとしたものから、仕事やプライベートの環境といった大きなものまで。
意外にも、どうしてこれだったのかと思うものが多く、絶対にこれでなければならないと思って近くに置いてあるものの方が圧倒的に少ない。
これを続けた先に、愛すべきものものに囲まれながら「今の私はこういう人間です」と明言できる日が来るのかもしれない。
私の周りにあるものが不健康で退廃的なものでなく、命を繋ぐ「パン」や生活を彩る「薔薇」、そしてまた別の自分へと繋がるどこか興味深い世界へと続く「ドアノブ」であれば良いと思う。
余談
余談だが、私は熊谷氏をNewsPicksの対談動画で知った。
その後、研究関係の仕事柄、講演を見る機会にも恵まれたのだが、熊谷氏の話はいつも興味深く含蓄ある言葉が私の記憶に残った。
熊谷氏のことを調べるうちに、交流のある國分功一郎氏の本を読む機会も増えたし、現代の女性哲学者であるミランダ・フリッカーの本にも出会えた。
影響を受けた人の情報を追い、その人の本を繰り返し読むなどの行為も、自分のものにしたいと願う価値観や思考を選ぶ行為だと思う。
そういう意味で、読書する習慣のあるものにとって、本棚というのは関心ごとのインデックスでもあり、自分を構成するものの一部を端的によく表しているはずだ。
ちなみに私は、他人に本棚を見られるのが少々苦手だ。自分の一部である自覚がどこかにあるからかもしれない。
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