あけましておめでとうございます

エッセイ

元旦——。

「寝不足の賑やかな朝」という非日常に迎えられ、昨夜の満足感を薄く引きずりつつも、倦怠感と共に私の一年が始まった。

連日の寝不足と食べ過ぎで重たい体に、お節とお屠蘇、それから甥っ子たちの兄弟喧嘩とお正月番組の喧騒を流し込む。

お年玉を促されるままに渡し、最強になった甥っ子たちのHPゲージは、大人と反比例して限界突破する。

そろそろ孤独と閑静を愛でたくなってきたが、私の日常はいまだ遠かった。

嬉しいような、悲しいような——。

散歩がてらひとりで初詣に行こうと思ったら、結局、甥っ子たちを引き連れての一族大移動になった。

神社と仏閣の区別がつかない甥っ子たちの質問に答えながら、不本意な初詣に暴れる彼らを嗜めつつ、お参りの仕方を教える。

左手を流して、右手を流して、口を清めて——。

清めるって何?

綺麗にするんだよ。そして最後に次の人のために柄杓の持ち手を流すの。

わかった。お金はいつ払うの?

神様にお参りする時だよ。鐘を鳴らしてお賽銭を入れるよ。2回お辞儀して、2回拍手してお祈りしてね。最後にもう一回お辞儀をするよ。

私が教えた形式を恭しくなぞる素直な彼らの姿は、不思議と小さく子供らしく見えた。

微笑ましさを感じた時、みんなで来れて良かったと何かしらの達成感のようなものを得る。

爽やかに晴れ、澄んだ青空と暖かな陽射しが気持ちのいい境内の雰囲気にも癒された。

今年一年が良い年になるという実感のような……じんわりと胸に広がる「きっと大丈夫だ」という不安と対極にあるようなある種の安心感が心地よい。これを多くの人は希望とか期待というのかもしれない。

これまで希望とか期待という言葉には緊張感が伴って、これから頑張らなくてはいけないという自分自身へのプレッシャーとも表裏一体だったため、こんな穏やかな感覚には使ってこなかった。

自分ひとりだけでなく、その場に広がる雰囲気も含めて、じんわりと感じた「きっと大丈夫」。

あまり、味わったことがない心地なので、正しい言語化かはわからない。

でも、これからは「希望」や「期待」という言葉の意味を、私の中のこういう感覚に使えるといいと思う。

母が言う。「なんだか一つの時代の終わりを感じる」。

義姉が言う。「日々は同じように繰り返されるのに、年齢を重ねた実感がある」。

私は思う。世代が明らかに一つ繰り上がった。

紅白歌合戦を見ながら、懐かしい曲に興奮し、時に涙すること。年末年始に懐かしい曲を聴きたい、と思う気持ちを理解できるようになること。

離れていた日本文化に再び触れたいと思うこと。

特番を楽しみ、ベタな年末年始の過ごし方を心地よいと感じること。その全てが、なんだかすごく哀愁を帯びていて、優しい気がしている。

年齢を重ねたおかげで、落ち着いたとても良い元旦を過ごすことができるようになったことが嬉しい。

皆で、今日が1番若いんだからと未来への希望を語る。

そんな日が来るとは数年前には思わなかった。

今年も一年、皆きっと大丈夫。そう声をかけ合いながら、再び日常に戻る残りわずかな時間を楽しみたい。

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