【夜と霧】命に問われた意味を、行動で答える

読書レビュー

不朽の名作『夜と霧』を読んだ。

ご存知の通り、1946年に出版されたヴィクトール・フランクルの著書で、強制収容所に囚われた自身の体験をもとに綴られている。しかし重要なのは、これはただの体験記ではないということ。

この本の冒頭で、著者は「これは事実の報告ではない。体験記だ」と明言している。しかし、体験記としての側面以上に、この痛烈な体験を心理学者として心理学的に論じようとしている姿勢にこそ、多くの読者が胸を打たれたはずだ。

この本は、「心理学者、強制収容所を体験する」から始まる。そして心理学者としてでなかったら、著者はこの経験を語りたくないと思っている。同じ経験をしたものには語るまでもないし、経験したことのないものには何をどう語ったとしても絶対にわからないからだ。それは、冒頭にそのように記されている以上に、人としての尊厳を失っていく過程を描く文章の端端からも、ひしひしと感じ取れることだ。

著者の言う通り、こうした想像を絶する経験を私たちが本当の意味で「わかる」ことは絶対にない。なんの痛みも伴うことなくただ語り部の恩恵に預かり、あらん限りの想像力を働かせることしかできない。だからこそ著者は、体験記を心理学的論考に昇華した。

あれほどの過酷な環境下で、最後まで人として生き抜き、医者であることを辞めず、心理学者として考え続けた。そして私たちにその経験と智慧をもって出した答えを授けてくれている。そのことにまず、最大限の感謝をしたいと思う。

精神に自由はあるのか

この本にはあらゆる困難と苦しみが描かれている。病気をしたことがある人、大切な誰かを失ったことがある人などは、少なからず自身の経験と重ねてしまうことがあるかもしれない。

私は、何度も浅はかな共感を繰り返し、深い洞察に感銘を受け、胸を痛めた。そしてその度、「共感」などという感情を持った自分を叱咤した。本当の意味で「わかる」ことはあり得ないし、安易に「わかる」と言われることが、悲劇的な思いをした人間にとってはどれほど残酷なことか、私は多少は知っているつもりだった。

しかし、この本の中に描かれている困難や苦しいはとても具体的でありながら、一般化もされている。事実、収容所内の心理的状態を描写した際に、著者は幾度も「病気」や「失業」といった私たちにも身近なものに例えて説明をし、その類似性を語ってくれている。最後まで読んだ今、この本に自身の体験を重ねて共感し、著者の教訓を活かすことはむしろ推奨されていると感じるのだ。

著者はあらゆるケースを具体的に記しながら、最終的には「精神の自由はあるのか」といった問いを掲げ、さらには「生きる意味」や「苦しむ意味」について結論を出している。

長らく収容所に入れられている人間の典型的な特徴を心理学の観点から記述し、精神病理学の立場で解明しようとするこの試みは、人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される、たとえば強制収容所の心理学なら、収容所生活が特異な社会環境として人間の行動を強制的な型にはめる、との印象をあたえるかもしれない。

しかし、これには異議がありうる。反問もありうる。では、人間の自由はどこにあるのだ、あたえられた環境条件にたいしてどうふるまうかという、精神の自由はないのか、と。人間は、生物学的、心理学的、社会学的と、なんであれさまざまな制約や条件の産物でしかないというのはほんとうか、すなわち、人間は体質や性質や社会的状況がおりなす偶然の産物以外のなにものでもないのか、と。そしてとりわけ、人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないのか、このような影響には屈するしかないのか、収容所を支配していた生存「状況では、ほかにどうしようもなかったのか」と。

こうした疑問にたいしては、経験をふまえ、また理論にてらして答える用意がある。経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。

その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽっぽっと見受けられた。

著者は、内面的な成長を果たしたケースをいくつか例に出しており、そのような人たちが現状に高を括るでも、堕落するでも、拒否するでも、悪徳に流れるでもなく、精神的存在になる決断を下し続けていたことに触れている。

私たちがどのような状況下であっても、そのような決断を行う自由があること。そして最後まで人間でい続けるかどうかを決めるのは、自分自身であると明言している。

さらに、ドストエフスキーを引用し、このように述べている。

かつてドストエフスキーはこう言った。

「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」

この究極の、そしてけっして失われることのない人間の内なる自由を、収容所におけるふるまいや苦しみや死によって証していたあの殉教者のような人びとを知った者は、ドストエフスキーのこの言葉を繰り返し噛みしめることだろう。その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、と言うことができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。

苦悩に値する人間であろうとするという考え方、そしてそれを実行できることの、なんと誇り高いことか。しなやかで強靭、そして優しく鼓舞するような響きがある。

これは、苦労の只中にいる人間全てに敬意のある言葉だろう。もし今、あなたが何か辛いことがあるなら、もし私が苦しんでいたら、その時はこの言葉を思い出していたいと思う。

きっとこの考え方は、眼前の状況の意味を変える。そして、あなたや私の心を支え背筋を伸ばしてくれるはずだ。

苦悩をやり過ごすのではなく、乗り越えるのではなく、それに値する人間になること。この思想は、苦しみそれ自体の価値さえ変え、私たちが持つ普遍的な問いの答えにも導いてくれる。

この本の終盤に述べられている結論にも通じている言葉だ。

苦しみの意味を問う

この本の大きなテーマとして、生きる意味や苦しみの意味を問うている。苦しみは、大なり小なり皆が経験し、その対処法に心を悩ませる。

例えば何か日常で嫌なことや苦しいことがあると、それに意味を見出そうとする。ちょっとしたトラブルでも、何か良い結果・価値のあることに繋がっているのだという物語を私たちは生活の中で必要としている。

それらを得られなかった場合、「志半ばで」「無念の」といった言葉で修飾されることもある。

この本の中で著者は、多くの被収容者が生き延びること、そして今味わっている苦しみに意味があるかどうかを気にしていたと綴っている。生き延びるという良い結果につながっているかが重要に感じるのは、今の私たちにとっても当たり前のように思える。

しかし著者は、逆の問いを持ち、悩んでいたと書いている。

しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたち収容所生活を取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は隅然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。

驚くことに、苦しみそれ自体の意味を著者は問うているのだ。幸福や良い結末につながっているかは関係ない、「ただ、今ここ」で感じている苦しみそれ自体に意味がなければ、生きている意味はないと言っている。苦しみも幸せも、生きることも死ぬ運命も、全て「生きていること」の中に内包される。ならばその全て、幸せだけでなく苦しみにも意味がなければ、生きる意味はない——。

何か苦しいことや辛い時代がただ過ぎれば良いと思っていた私にとって、これはあまりにも衝撃的だった。

その後、さらに著者はビスマルクの言葉を借りてこのように述べている。

凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。

「人生は歯医者の椅子に坐っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」

これは、こう言い替えられるだろう。

「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」

けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。

少なくとも私は、これまでの人生「これからが本番だ」と思いながら今をやり過ごしたことが何度もある。私のように現代日本で苦労なく一般的に生きてきた人間であっても、この言葉にはあまりにも思うところが多すぎた。

人間が真価を発揮すべきは、常に、「今ここ」だった。

いつか、は来るかもしれないが来ないかもしれない。そしておそらく、どちらでも関係ない。関係ないと思って生きなければいけない。今をどう捉え、どう内省し、どう成長に繋げるかに集中するのだ。

今私が、そしてこれを読んでいるあなたが、もし苦しみの中にあるとしたら。むしろそれは、一層「真価を発揮するべき只中にいる」ことになる。死んだように生きるのでも、なんとか耐え忍ぶのでもなく、今一瞬一瞬が私の、そしてあなたの生きる意味の証明になっている。

私はこの言葉に、叱咤され、勇気をもらった。苦しいことを乗り越えよう、今より良い場所へ行こう——と考えていたが、今苦しんでいるのなら私は、まさに真価を発揮せねばならない場所に辿り着いているのだ。今まさに体験している苦悩に見合う人間になる局面にいる。

もし人生に見せ場があるなら、この後来るかわからないいつ終わるともわからない「ふってわいた幸福な何か」ではなく、「今確かにここで感じている辛さ」や、「誰にも侵されることのない過去に乗り越えてきた苦難」だ。

著者は、生きることの意味を問うのはやめようと言っている。私たちが問うのではなく、問われているのは私たちなのだと。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

私たちは、命に問われた生きる意味について、今この瞬間瞬間の行動で、そして人生を通して答えていく義務がある。喜びだけでなく、苦しみに対しても誠実に、投げ出さずに向き合う必要がある。それを続けることそのものが、ないと思っていた生きることの意味になり、苦労の意味になり、人生に見せ場のある物語を与える。

この本を読んだ後から、私たちはもう生きる意味について考え途方に暮れることはない。そして、苦難に直面した時、何かしらのハッピーエンドの伏線かのように無理やり物語を紡ぐ必要もない。ただ、今を見つめて生きること。今起きていることに見合う人間に、なり続ければいいのだ。

最後に:読むきっかけ

これまでに読みたいと思ったことは何度もあったが、最終的な購入のきっかけははっきりしている。

どこかで見た推薦書のレビューに、『夜と霧』を読むと、辛く孤独な時にふと思い出してはポケットの中で触れて安心するような思想が持てる(詳細は忘れたが、意味としてはそのようなことを書いてあったと思う)と書いてあった。

そして若い頃に読んでおくと良いとも書かれていたと思う。

私は20代の頃より、自分の人生で向き合うべき大きなテーマに「孤独」を掲げている。何か悩むべき事象に直面するたび、日常の出来事から敷衍して大きなテーマを思い出したように考え、手の中で持て余す。

そして、少し前にこの本を書店で手に取った私も、確かに孤独や運命について書かれた本を求めていた。

結論から言って、早く出会っていたかったと思うと同時に、出会うべくは今だったのだと納得する思いもある。

今だからこそ、ここに記すような結論に至れた。現在30代の私だからこそ線を引いた場所があり、20代の頃には素直に納得しきれなかったこともあったかもしれない。

引用されるニーチェやドストエフスキーを、20代に多少なり読んでいてよかったとも思わされた。

レビューを書いた人のように、きっと私も、これから先何かに直面するたびに、心の中のポケットからこの本の言葉を探し出し、手繰り寄せる。

そして温めるように言葉を自分に馴染ませてから、またそっとポケットにしまい込んで、行動していくことになる。

人生の折に触れて読み返したいと思る、人生を支える名著だった。

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