【まるで有識者】存在しないゲームの提案

エッセイ

以前、年下の友人に『はぁっていうゲーム』をもらった。

一度やったことがあるが、面白いゲームだ。大人数でするほど面白い。演技派になれた気になれる。

だが、なぜ急にこれをくれたのか、私はよくわからなかった。

仰々しいプレゼントボックスから出てきたサイズの合わない小さなゲームが面白くて、リアクション待ちをしてる友人の顔を盗み見てからすっとぼけることにした。

「ありがとう。これちょうど欲しかったんだ」

私がそう言うと、彼女はいい笑顔で「すごいつまんない飲み会にいく時、持っておくといいですからね!」と言った。どんなにつまんない飲み会もアラ不思議。アナログゲーム一つあると間が持ってしまうと言うのだ。

いや、どういう状況だよ

まず、凄いつまんない飲み会とわかってるなら行きたくない。楽しくないなら私は一人の時間を楽しみたい。万が一、上司相手など断れない場合があったとしても、そんな飲み会でこのゲームを出せるはずがないじゃないか。

「ポータブル版なので、小さいし、いざという時のために持ち歩くと便利ですよ。防災グッズと一緒に持ち歩きましょう」

なおも彼女はそう続けたが、それから数ヶ月——まだ袋に入ったまま本棚の隅で眠っている。使い道は今のところない。

どうせだから一緒にやろうと誘ったら、断られた。なんでだよ。

「私といるときは他にやることいっぱいあるんで。つまらない時に使ってください」

よくわからないが、これも彼女の愛情表現なのだろう。

私の本棚に、自分が手を出した瞬間に退屈しているのだ認めるアイテムが爆誕してしまったじゃないか。

ねえ、絶対ふざけてるよね?

道具を使わないゲームの提案

アナログゲームを久々に見て思ったのは、その目のつけどころの面白さだ。

誰かと集まり会話に何かしらの「縛り」をつければ、人間はなんでもゲームにできてしまうのだなと思った。

つまり究極、道具はいらないのだ。

「縛り」と言うのは、今からみんなで創り出す世界の「設定」見たいなものだ。

簡単なところだと、お題に沿って話をするだけでいい。

そんなのは作るのも面白ければ、没入するのも面白い。ほとんど同人活動だしプレイヤーはサークル仲間だ。

そこまで考えて、ふと昔思いついた自作のゲームがあるのを思い出した。

その名も『まるで有識者ゲーム』。

作者についても作品についても詳しく知らない創作物を一つ用意し、それについてまるで知識があるかのように語ると言うものだ。題材はCDジャケットでも、本の装丁でも、抽象画でもなんでもいい。

「この円のモチーフは、永劫回帰を示していて、その中に描かれている人は〜」

「外に行けば行くほど鮮やかな色を使っているのは主人公のまだ見ぬ世界への希望を示していて〜」

「これはとある二つの近代アートをオマージュしていて〜」

といったふうに、まるで芸術や創作を理解し、全てを知っている有識者のように真面目な顔で、時にしたり顔で語るのがポイントだ。

最近読んだ本の知識を話したい人や、自分の考えた設定を言いたいだけの人、衒学趣味のある友人を誘ってみると楽しい。

これの何が面白いかというと、自分の知識をフル稼働してもっともらしいことを言う能力がつくだけでなく、なんか自分が思う以上にありそうな説が飛び出てきたりもすることだ。

喋っているうちに自分が本当にそうだと思う考えに辿り着いたり、自分から出てきたとは思えないような優れた発想に辿り着いたりすることもあるかもしれない。

ぜひみんなで退屈な時もそうじゃない時も、知識をひけらかしたり無駄に考えたりしたい時にはやってみてほしい。

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